1997年の暑い夏の日。私はまだ生後半年の長女をスリングでぶら下げ、夫、仲良しの生徒カップルと、もう一 組の日本人カップルと、東武伊勢崎線の東向島駅で降りました。
この日は、永井荷風や黒澤映画が好きな私たちのため、浅草出身でこの辺に詳しい友達が玉の井(昔の遊郭エリア)周辺を案内してくれる、大人の遠足なのでした。

「ああもう、数年すれば失くなるんだろうなぁ」
と思われる、ものすごい古い建物を見て歩いていると、ある路地の入り口で、
案内人のYさんが立ち止まって、向こうを指して言いました。

「ここが、tamadocaさんの好きだと言っていた、
『異人たちとの夏』のロケ地みたいですよ」

草も刈られ、原田の両親の住んでいた設定のアパートも、
もしそれがセットでなくてそれを使っていたのだとしても、ほぼ骨組みだけになっています。

「ここじゃないかもしれませんけど、ここだとは聞いています」

とのことでした。


その時はすでに、「異人たちとの夏」公開の1988年より9年も経っていましたから、
ロケ地が残っていたとしたら、奇跡ですね。
思えば私は昔から、ロケ地を崇めたてて、聖地へ巡礼していたのでした。

その映画が好きであればあるほど、
「あなたはどんな映画なの?」
という思いが込み上げ、いろいろ調べたり、見に行ったりしたくなってしまうのです。

さて今日は、「異人たちとの夏」を、もうちょっと考えてみる3回目です。

UーNextで今 観られるようになっていて、観始めたら止まりませんでした。
たくさんの記憶違いが見つかったのにもびっくりです。

初めて観てから長い年月が経っていますが、今観ても、とても良かったです。
そして、いつも泣くところで、やはり泣きました。
最近涙腺も弱っていて、なんでもないところでも涙が出ます。

家でじっくり見直したので、いろいろなことがわかりました。

1988年の公開時、原田は40歳です。

原田と両親の写真の裏には、
「昭和35年7月16日 秀雄12歳 誕生日」となっています。
原田は、昭和23年、1948年の7月16日生まれの、物語の時点では40歳です。

両親の位牌の裏の 死亡年月日と死亡時の年齢を見ると、
両親が亡くなったのは原田が12歳の誕生日の直後、
昭和35年、1960年の7月20日です。

原田の母が が亡くなったのは32歳のときですから、
原田を産んだ時は20歳。
原田の記憶にあるはずの母は、若い若い、32歳なのです。
ちなみに父(鶴太郎)は没年齢は34歳です。

なぜにこんなに3人の年齢にこだわるかというと、
私はこの映画を繰り返し見ていた公開時から10年ぐらいの間に、よく、

え、いくらなんでも、1988年ごろはこうじゃなかったのでは?

と思っていたからです。
つまり、40歳の自分と、世代の違う自分と、同じように考えてしまっていたため、

子供の頃でも、銭湯に手拭いで行ったりはなかった とか、

自分の母親が、夏きものにパラソル、髪に大きな花をつけて出かけるなんてなかった

とか。

でも今回よく考えてみると、原田が生まれた1948年に32歳と34歳の夫婦であった原田の両親はなら、生まれたのはそれぞれ、母は1916年、父は1914年です。
西暦でみるとあまりぴんと来ませんが、
1916年はなんと大正6年。
1914年は大正4年なんですね。



だから、原田の母がおめかしするときはこのような古めかしい姿になります。






ここがすっきりして、本当に嬉しいです。

続きます。