生きていれば今年102歳になっていたはずの義母が、最後に日本に遊びに来てくれたのが、
ちょうど10年前の12月でした。
92歳。

日本に 行きたいけど、いい?

と義母が言った時、私たちはもろ手をあげて賛成しましたが、
92歳ということで、義妹がちょっと心配しました。

そこで、私たちからは「ビジネスクラスで来てくれること」、
ニュージーランド航空からは、
「飛行機に乗る前後は車椅子に乗ってください」
ということで、義母の最後の来日は現実になりました。



中部国際空港、セントレアは12月の初旬も、そのころは天候もまだまともで、とても寒かったです。
空港の飾り付けはすっかりクリスマスでした。
到着ロビーで待っていると、義母が静々と車椅子に乗って
押されて進んできて、降り立つと、

車椅子なんて乗ったことないわ、嫌だわ〜

と言いました。

高校生だった二人の娘と私たち夫婦、母は、それから1ヶ月、
日本のクリスマスと、年末年始を楽しみました。

名古屋市内ではもちろん栄、大須商店街、円頓寺に四間道。
鶴舞のやんさんのやんバー、地元植田・原の私たちの大好きなバー、
居酒屋、焼き鳥屋、イタリアン、フレンチ。全部行きました。
母は好き嫌いもなく、高齢でも私たちと同じだけ食べ、飲みました。
トヨタ美術館、トヨタ・テクノ・ミュージアムは私の大好きなところなのでもちろん行きましたし、
京都に、郡上踊りは季節外れでしたけれど、行って、素敵な街並みを歩き回り、
こっちのカリカリの美味しい鰻のひつまぶしも食べましたっけ。

そうそう、夫の仕事場の南知多半島にも行って、
豊浜や美浜・・年末の買い物はその地の魚市場で。
義母はマグロのカマのオーブン焼きが、大層気に入りました。


1ヶ月毎日、朝になると義母は、大きな化粧ポーチを小脇に、
しっかりと手すりにつかまって階段を降りてきました。

「ここまで来て、階段転落でもして迷惑かけちゃいけないもんね」

と言っていました。

家には、義母の使うタルカムパウダーの甘い匂いが いつもかすかにしていました。

隣の大家さんと義母と、会ってお喋りしたら、
「お元気ですごいですね〜」と、
後から美味しいお菓子を届けてくれました。
須崎さん本当にありがとう!

いいご近所に恵まれて幸せだね

と義母は喜んでいました。

クリスマスは、母の持ってきた飾り物や、クリスマスクラッカーで賑やかに。
クラッカーといっても食べる方ではなくて、
ボール紙の筒に小さなおもちゃがはいっていて、キャンディーラップしてあり、
隣の人と両端を引っ張って、パーン!と言わせます。

すると、薄紙の王冠と小さなおもちゃが出てきて、
それぞれかぶってクリスマスの食事の始まりになるのです。

大事に育てた愛する息子が、26歳で日本に行ってしまって、
結婚して、帰ってくるのは年に一度になった義父母。
寂しかったと思いますが、帰ってこい、はもちろん、
ネガティブなことは一度も聞いたことがありません。

それどころか、私が悲しいときは電話や手紙で訴えるのは
実父母ではありえず、いつもこの義母でした。

夫はもちろんですが、義父母のおかげで私の経験値は上がり、
日本語教師としてのいろいろな面でも、とても自分を広げてもらったと思っています。

感謝してもしきれません。
おかあさん、ほんとにありがとうねー。







この赤と緑の星や、トナカイやエンジェルのオーナメントですが、義母が持ってきました。第二次世界大戦中で物資が枯渇し、こういうものしかできなかったのよ〜と言って。

今となっては良い義母の形見です。

クラッカーから出てきた紙の王冠をかぶって、クリスマスの食事




義母が持ってきたクリスマス・クラッカー。

そうそう、あの頃はまだもう少し付き合いが濃かった親戚から届いたり、
家族四人が総当たり制でお互いにプレゼント買っていたので、このぐらいありました。
ツリーの下にプラゼントを置いて行って、
25日の朝にパジャマのまま、大騒ぎして開けるのが習慣だそうです。