大石静様は、中宮定子がお嫌いなのか

はたまた

桐壷の更衣と桐壷帝として、一条帝を批判し、その関心を

中宮彰子へと向けさせるべく朝、政務に励む賢帝故に、藤壺への渡りの少ないことを正当化したかったのか(全くの私見)

 

忘れ得ぬ人・・・まるで、定子中宮を和風・楊貴妃扱い。さながら一条帝は玄宗皇帝か

出家、出家というが、落飾でござる。受戒を授けた僧は何処じゃ???その名も記録にない。

貴族達ですら、病いが重いと、すぐ出家するではないか。

還俗する者も多かろう。女御元子に至っては、想像妊娠(998年)?恥じて実家から戻らず(生母が内親王、父は左大臣、名門中の姫様)一条帝亡き後に、あろうことか密通。こちらの方が大問題ではないか、但し、既に道長は、彰子中宮に皇子誕生で揺るぎない望月を描きつつあるので、定子の宮が受けたであろう嫌がらせは皆無。

一条帝は政務をなおざりにしての職の御曹司通い・・・うーーむ、そこまで道長君をお持ち上げか!

ああとため息をつく

どんな小さな役でも、血が通う・・三谷幸喜さんの筆が懐かしい。

 

でもいいんだ。

私の定子像は、このお方とは少し違う。女優さんが異質。

隆家もちゃうちゃう、私的には賢人君だわさ。

 

後年、二代の后として、世の誹りを受けた藤原多子を想う。

一条帝と二条帝

帝の寵愛が、誉れではなく、哀しみ、苦しみとなる。

定子の宮が自ら髪を切ったのは、愛する家族に対する夫一条帝への非情さへの抗議である。

襲い来る不幸の中で、決別を、愛する人へ突きつける意思の強さ。

少納言が枕草子の中にとどめた、定子像は美化でも理想でもない、現実に存在した「定子中宮」そのもの。

 

多子も、望んだわけではない。

歴史に「二代の后」として名を残すことは、恥辱であり、そこには多子の意思は無い。

政略に揉まれ、権威に屈しても、彼女はしなやかに、気品を具して生きるのである。

二条帝の後宮は女御、中宮、数多ひしめく、そこへ「皇后」とは言え、先々代の近衛帝の后が正妃として入内。徳大寺家の権門の力はあれど、世のそしりは、定子中宮に匹敵したのではないか。麗景殿にお入りになられ帝に寄り添い、ひたすら朝政を勧められたという。

静先生の「政務を疎かに」とは、平家物語では、書きません。

 

 

 

 

 

 

24歳と62歳の生涯。そして同じ、太皇太后の尊称を持つ上東門院彰子。

彼女は、驚くべき長寿を保ち、御堂関白家の総てを見届けた。

夫一条だけでなく両親は無論、妹達、我が子2人の天皇を看取った。

皇子を2人産んだことで、「輝く日の宮」として、実家を守ったのである。

 

 

 

 

 

 

長保元年(999)正月、一条天皇は定子を内裏に呼び戻している。

 

むろん道長は、定子が皇子を産んで中関白家が復活することを恐れただろう。

だからなのか、道長の日記『御堂関白記』は、この年の正月分が欠けている。

また、そんな道長に遠慮してか、藤原実資の『小右記』も行成の『権記』も、

この月の分は残っていない。

 

「望ましいことではなかった」ことは現実となった。

藤原行成の『権記』によれば、

一条天皇ばかりは大よろこびだったというが、定子への風当たりが弱まることはなかった。

そして、定子は相変わらず一条天皇の寵愛を一身に受け続けた。

長保2年(1000)12月16日、次女の媄子内親王を出産するが、

後産が下りず、24歳の若さでこの世を去った。

 

たしかに愛されたが、

その愛がゆえに不幸を背負った人生でもあった。

 

 

そうかなぁ

そうでしょうかねえ

 

そうですよね

出家して、静かに姫宮を育てながら、少納言や宰相の君や心知った女房達と

(「中宮職」からか、弟隆家からか、経済的支援は皆無ではないはず。)

多子のように、風雅に人生を楽しむ。

 

 

86年生きようが

24歳で薨去しようが 62年の生を全うしようが

 

令和6年

今、現在、その名は歴史という物語でしか知りようが無い。

でも

確実に、100年後も五百年後も、その名が示す命は伝わる。

 

 

 

in 新潟 長岡 華鳳にて ゆらりんこ