【禅語】冬嶺秀孤松とは|意味・解釈を原典から解説 | 茶道のあれこれ簡単解説

               「弧松の間」

 

何事についても季節と同じように巡っていくので、

「思いすぎず手放すこと」の教え

 

冬嶺秀孤松」が出典 / 陶淵明作の『四時歌』

 
 
 

「冬は、嶺に独り立つ松の姿が際立つ」

 
 
遠く、雲海の向こうに人の訪れを拒む山々が
砦を張り巡らす。
 

 
それでも、人は信仰を胸に、極楽浄土を切に願う。
 
雲洞庵(南魚沼市)概要: 金城山雲洞庵は新潟県南魚沼市雲洞に境内を構えてる曹宗の寺院です。雲洞庵本堂の正面と石橋。現在は使ってないのかな~?石段は苔生して凸凹しています。雲洞庵の創建は奈良時代の養老元年(717)、藤原房前が母親(先妣尼=蘇我娼子)の菩提を弔うため、先妣尼縁の当地に薬師如来安置し雲洞寺と号したのが始まりと伝えられています。その際、雲洞寺の境内背後に聳える山が朝日で金色に輝くのを見て金城山(標高:1369m)と名付け、山号の由来となっています。藤原房前は実質的な家祖である藤原不比等の2男として生れ藤原北家開祖となった人物で、兄弟である藤原武智麻呂(藤原南家開祖)、藤原宇合(藤原式家開祖)、藤原麻呂(藤原京家開祖)と共に朝廷の主要な役職を独占し藤原四子政権を確立しました。先妣尼(蘇我娼子)はこの地で湧き出る霊泉を用い多くの人々を救い草庵を設けたとされ、藤原家の荘園という事もあり代々藤原家の庇護の下、真言律宗の尼僧院として寺運が隆盛し日本一の庵寺、越後一の寺と呼ばれた。
数多の石仏が氷雨を見に受け
祈り続ける。
 

京の都、奈良からも遠いこの地で
不比等の正妻は、何を願い 祈ったのか。
不比等のもう一人の妻、加茂比売の娘が宮子、彼女が聖武(首人)を産む。
最後の妻 県犬養 三千代が、光明子(安宿媛)を産む。
女達の力、母の出自、不比等はその名のまま、娘の子を天子となし、もう一方の娘を皇后とし、その子を女帝となす。
並ぶもの無き人は、只人から、月を我がものとする。
 

 
おおおおおおおお
ありがたや
1歳年下の愚弟に面影、バッチシ。
特に、薄くなりつつある頭髪を銀座クリニックの電気治療で、半年
通院中・・・お馬鹿さんだわ、無駄金ばら撒いている。
ライン送ったら、苔生えているじゃんか!と甚くお冠。

好い風情ですよね
 
 

 
【 雲洞庵の土踏んだか 】
「雲洞庵の土踏んだか」の由来については、案内板によると 永享元年(西暦1429年)関東管領家より10万石の格式をいただき、赤門を建立、本堂までの石畳の下に法華経を一石一字づつ刻み敷きつめたことから、昔1年に1度赤門が開かれた時お参りすると御利益があると云われ善男善女が有難さに随喜して言い合ったのだと云われている。
 

この道は只の道ではありません。敷き詰められた石板の裏には経文が刻まれているそうです。往復すると御利益も倍増!

藤原不比等 を父とする 藤原四兄弟 の次男で 藤原北家 の祖
母は曽我娼子
概要 画像

不比等は、天武7、8年頃に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。

それにより、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりだったが、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示せた。

天武朝の後期には従兄弟と、草壁皇子に仕えた。 

東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は

草壁皇子から不比等に授けられた護り刀で、後に

皇子と不比等の共通の孫である聖武天皇に譲られた。伝  Wikipediaより

娼子は藤原不比等の最初の正室。大宝元年ごろ死去か。
武智麻呂、房前、宇合の生母。
しかし、
『日本書紀』などの同時代史料には全く記載がなく、事績には不明の点が多い。
天武の妃の五百重郎女を母とする麻呂を含めた
藤原四兄弟が妹光明子を天武の皇后にして、その名通り
皇統に藤の蔦を絡めていく。やがては藤原北家の台頭、
道隆、道長の時代、光る君へと大河は流れる。
 

 

熊さんが出るそうです。

 
この後の
令和6年睦月一日
よもや
地は裂け
海は荒れ
大きな悲劇が訪れようとは
 
光る君になんの意味がありましょうぞ