戦国時代、大名ばかりか庶民階層ですら、家刀自の名は「通称」でもほとんど史料に記されることは稀です。それは平安時代から、紫式部の本名、清少納言の本名は、小説では「なぎこ」あたりがせいぜい。名が記されるのは、公家さんの筆まめにより、中宮、女御のやんごとなき御身分の御方。更科物語の作者は父の名から「菅原孝標の娘」これ道三息女と同じ、又は子の「藤原道綱の母」…古来、皇后、中宮、皇女、内親王,以外、名は「無し」で父や兄弟、子の役職名から、式部とか少納言などと通称に付帯された官命が呼び名。 だから 戦国史に女性の名は勿論、よほどの事件が無い限りそれも由々しき事態が起きなければ、その生涯は、誰も記録にはとどめない。

  

だとしたら、男系からたどったら如何か、道三父上、流石です。

末子利治(当時は幼名新伍)に、「美濃一国譲り状」を婿の信長へ届けさせる。その行為は、父の愛情に満ちている。義龍は明智氏をはじめ、道三縁者を悉く殺している。書状を届ける役目を負った彼は、信長正室に守られ、而も届けた譲り状により一片の紙に過ぎなくても、「大義名分」の形を如実に、

「道三息女」を大切にし、彼女を正室のまま、美濃の国盗りの名目として濃姫の重みを織田家に示す。

理に聡い信長がこれを利用しないはずはない。

最愛とか、最寵とか、お子を何人産もうが、そんなあまっちょろい事は、二の次である。明日の命は蝋燭の灯影のように今川進行の圧に揺らぎ、美濃からの挟み撃ちに消滅寸前と思われる。

禄8年(1565)11月1日利治は信長より美濃武藝(武儀)郡から加茂郡にかけて地十三ヶ所、都合2184貫文の知行を賜った。(備藩国臣古証文)利治は斎藤道三の子だが、敵である斎藤龍興の一族でもある。戦で子を失ったのち、佐藤忠能の娘を継室に二男一女を得る。義父佐藤忠能は隠居して城から離れ、伊深村に移り住んだ。豪胆な性格だったようで、大意、武勇を好み、仁と智があったと伝わる。隠居後もそうした性格から、京の公家・山科言継らと交流を持った。

天正2年(1574)7月の第三次伊勢長島一向一揆攻めでは織田信忠の与力として従軍。この時利治は一ついに長島一向一揆を鎮圧した。(信長公記)利治は信忠付きの家老として良き相談役と認められ信忠からの信頼は絶大で、信長からも新五(利治)を父と思い何事も相談せよ」と命じられている。(信長→濃姫→信忠→利治の親密なつながり、明白)

天正4年(1577)信長は嫡子・信忠に尾張・美濃の2国を譲り、正式な織田家の世継ぎとした一説には利治もこの時信長正室で自身の姉にあたる濃姫の養子となったとある。(信忠も濃姫の養子なので、義兄弟の契りとしたか)

天正十年6月2日二条城で利治は信忠の自害を見届けた後、「今は誰が為に惜しむべき命ぞやと敵陣へ切り込み、忠死を遂げた。この戦いの最中、明智光秀の側近の同族で縁者のゆかり深い斎藤利三から投降を呼びかけられるが、利治は最後まで織田家への忠誠を貫いた。(利治の娘は利三の子に嫁いでいた。)享年41歳。「南北山城軍記」には天下に輝かせ、忠志を全うし、二条城中において潔く忠死して、恩君泉下に報じ、武名を天下に輝かせりと記されている 

 

信長を祀る建勲神社/京都船岡山kenkun-jinja.org/36-vassals.html

建勲神社は織田信長公を主祭神に、その子であり後継者であった信忠も配祀しています。

(麻呂ちん、山形でお参りしました建勲神社は、織田信雄の一族を祀ります)だそう、だっふんだm(__)m

織田信長公三十六功臣の一人として道三末子、信長正室の弟は、しっかりとその役目を果たして史料に残っておりますぞ

から

故に

信長正室は唯一無二、「濃姫」帰蝶様でございます。 

京の公家・山科言継とのつながりも明白

書きますわよね、残しますわよね、見知らぬ女性が信長女ならば、知己である言継卿が「壺争い」やら「女子出産」書き記しまへんで。

濃姫様に決まっているじゃん//////ああ、疲れたべえ  外伝 時の娘もどき、息子でしたm(__)m