積善寺の桜の造花の前の定子の宮の 兄 君 伊周 



いつも日参します、ブログから、今日もお題を戴きました。

 

「式子内親王」・・・かの大河の
さんざん、清盛はんを味方にしたり、敵にしたり、利用しまくり這った後白河はんの、内親王です。(大河は頼長最期が見られず、遇えなく撃沈・・その後遺症で、今年の何とかも見てません・・・乗り遅れますと、ずっと乗り遅れます)

生母は待賢門院璋子の姪。後白河即位前から典侍として10年以上、側にあって6人もの子を生みながらも、平滋子のように女御となることもなく、軽んじられたまま、その住んだ邸宅から高倉三位で終わる。
彼女が生んだ三人の内親王は斎宮、斎院と、神域で成人したり夭折したり、
だが、「待賢門院」の繋がりは太かった。
美福門院派と微妙な均衡を執りながら、太皇太后多子が、以仁王の元服を近衛河原の御所で執り行う。二条帝の意志を継ぐ固い決意が覗える。
内親王の身分、斎院でもあり、和歌にも秀でている・・なのに、活発なお嬢様であったのか、それとも利用されたのか、呪詛やら追放やら、波瀾万丈だ。


もとい、彼女の「煙もさびし」から、急転直下




ずっと先の、朱雀、村上の御代。源融(ちまたでは、光源氏のモデルとも?)が、憧れし辺境の地陸奥の「塩釜の浦」を真似して、自邸に河原を作り、風情を楽しむ。在原業平、紀貫之とそうそうたる花形が詩を作る。

亡くなられた時は


「君まさで煙たえにし塩釜のうら淋しくも見え渡るかな」

 

ここまでが下地。




「秋山の木の下かくり 行く水の 我こそまさめ 御思ひよりは」なんです。



で  新古今和歌集の一條院皇后宮(定子皇后・・・本当は定子中宮様)の御歌

『いにしへのあまや煙となりぬらむ 人めもみえぬ しほがまのうら』

(いにしえの海人が皆死んでしまって、煙となって昇っているのだろうか、人の行き来も海藻もみられない塩釜の浦であるよ。)

 

勿論、定子の宮も、『塩釜』はご覧になっていない。禁裏、自邸の二条第、京の都を出たと言っても、ご身分柄、遠くには行けない。少納言に、紅葉狩りをお許しにはなられるが、ご自分は宮中、梅壺、識御曹司、成昌の家。





 
 
  
  
  
  

これは『ものの あはれ』である。

 

心から、
ただ、ひっそりと もれでた お言葉・・・溜息のような・・・

いにしえの、先人たちは、みんな、もういない。
(藻塩を焼く)煙となって、天へと昇って行ってしまったのかしら  
風流を解する人達が、あんなにも持て囃され、
風情を愛された、
あの『塩釜』の浦には、

もう 誰もいないのかしら

 

ご自分のために、ふっと 歌となった。 日常のお言葉が、和歌となったのだ。

 

ここには、笑わせ給う宮はおられない。

 

きらきらしい漢文の素養も、当意即妙も影をひそめ、人生と向き合う、定子の宮がただお一人でおられる。

手を延ばせば、そのお体に触れられるような、お近くに、
御簾も簾も几帳も、お顔を隠す扇も手に為されず、定子の宮がおられる。

 

千年は一瞬だ。

貴女はご存じだった。

25歳の生涯で、貴女はすべてをご存じであった。

御仏を敬いながらも、愛のために、往生を捨てた。

定子の宮はみつめている、自分もまた、
『煙とも くもともならむ身なりとも、草葉の露』に。

『塩釜の浦』は見られない、それでも、露にはなれる、
あの方の・・・露の宿りにはなれる。

 

寂しい、淋しい風景に、定子の宮のお心が添えられるとき

私は見る、千本の万本の煙が天に昇る。
命が役目を終えて、登っていく、消えていく・・・

いにしえの歴史の中に、今、一条院皇后宮が、生きておわす。


お姿が、
肩を並べて、お傍に感じる・・・・・この あはれ・・・

 

歴史とは、未来への過去からのメッセージ。

どう、受け止めるかは、人それぞれ。




それは

  限りない、贈り物。



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