今日のダーリンより

 

論語

学びて思はざれば即ちくらし。
思ひて学ばざれば則ちあやうし。

(学ぶだけで考えなければ本当の

理解とはいえない。

考えるだけで学ばなければ独断に

おちいる)。

いろんな解説を読んでみて、
ぼくなりに「訳詞」みたいに

言い換えてみました。
「知らないことを学んで知っても、
それをじぶんの思いに重ねられ

なければ、わかっちゃいないと

いうことだね。
じぶんの知ってることだけで、

考えてばかりで、他から学ぼうと

しないとそれは大間違いをする」
ということになりました。

じぶんの自然な思いだとか、直感

だとか言われるものを大事にしよう、

という考えがあり、これについては

ぼくも賛成ですが、そっちに重きを

置き過ぎるのは、危ないぞという

ことです。
それが「思ひて学ばざる」で、

そっちの方が「学びて思わざる」の

「わかっていない」よりよくないと

言っているように思えました。

これを何度か反芻して考えていると、
「思う」は「じぶんの世界」の内に

留まっていて、「学ぶ」のほうは、

「じぶんの外の世界」に手をのばして

つながろうとしているように見えます。
そしたら、あ、そうかと‥‥

それが「学ぶ」だよなぁと。
「知りたくて手をのばして繋がろうと

する」が、学ぶだとすると、いろんな

ことが納得がいきます。
趣味につっこんでいくことやオタク的

深入りも、学問に夢中になることも、

マンガを真剣に読むことも、みんな

「学ぶ」ということではないか。
だとしたら、人は死ぬまで「学ぶ」が

大好きですよね。
学ぶこそが、楽しみ「遊ぶ」そのもの

じゃないですか。
もう学ぶには「あそぶ」と、遊ぶには

「まなぶ」とフリガナをふってやりたい

くらいです。
 

ある公園に、山盛りにこどもがいた。
それを連れてきている保護者たちも、

たくさんいた。
滑り台、ブランコ、「うんてい」、
わーだのひゃーだの叫びながら

走り回っていた。
きゃーだのわーだのの、いちばんの

山場は、小学生の女の子が手に入れた

「とかげのしっぽ」だった。
群がる大きめのこも、小さめのこも、

赤ん坊も、「見せて見せて」「わー!」

「きゃー!」と集い、逃げる。
「とかげのしっぽ」はそんなにウケて

いることも知らずに、うにゃうにゃと

暴れていた。
世界は、「とかげのしっぽ」にも

主役になる機会を与える。
こどもたちがいれば、それは可能に

なるのである。

 

四月だけど、日焼けしそうな、強い

日差しの午後だった。



生きるは、学びで、学びは遊び、

遊びは学び、たのしむこった。

 

学ぶところには独善も入りこみにくい。

 

 

 

 


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