第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分、
アメリカ軍の爆弾投下機 ボックスカーが、日本の長崎県長崎市に
対して原爆を投下した。
人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、
建物は約36%が全焼または全半壊した。
投下は第一目標が福岡県小倉市( 現:北九州市小倉区 )、
第二目標が長崎市であった。
天候観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、
護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するという
ものであった。
先行していた観測機エノラ・ゲイからは、小倉市は朝靄が
かかっているが、すぐに快晴が期待できる、
( エノラ・ゲイは広島での原子爆弾投下機だった )
ラッギン・ドラゴンからは長崎市は、朝靄がかかっており
曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。
報告を受け午前9時40分、ボックスカーは大分県姫島方面から
小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標
である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。
しかし、この時地上では八幡製鉄所の従業員らが、三日前に
広島に落ちた新型爆弾を警戒し、
「 出勤してすぐ、防空管区情報から少数機編隊が北上中と流れた。
少数機編隊は広島と同じで、飛行経路もいよいよこっちかとなって、
空襲警報が鳴った。 みんなですぐにドラム缶を、だいたい200個
くらい半分に切って、コールタールやベンゼンを入れて燃やして
煙幕を張った 」。
と、のちに証言している状況であった。
( アメリカ軍の報告書にも、この時の小倉市上空の状況について
『 雲 』 ではなく 『 煙 』 との記述が見られる )。
煙のせいか小倉上空での 3回もの爆撃航程失敗のため、残燃料に
余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生した
ので予備燃料に切り替えた。
更に日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、陸軍芦屋飛行場
から飛行第 59戦隊の五式戦闘機、海軍築城(ついき)基地からは、
第203航空隊の零式艦上戦闘機 10機が、緊急発進してきたことも
確認されたので、目標を小倉市から、第二目標である長崎県長崎市
に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。
長崎天候観測機 ラッギン・ドラゴンは
「 長崎上空好天。 しかし徐々に雲量増加しつつあり 」
と報告していたが、それからかなりの時間が経過しており、
その間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、
午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、
高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点
より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる
長崎市街が覗いた。
約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘の
テニスコート上空、高度503mプラスマイナス10mで原爆は炸裂した。
(長崎市松山町171番地 )
ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避けるため北東に向けて
155度の旋回と急降下を行った。
爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティスト
から爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデが落下傘を
つけて投下された。
100km離れた熊本県熊本市では 「 ピカッと閃光が走り、空気が
ぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた 」 との証言。
また遠く200km離れた大分県中津市でも 「 あの日長崎方面から
立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった 」
と当時を語る証言もある。
広島に投下された原爆 ( TNT火薬15,000t相当 )の1.5倍の
威力であった。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、
熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は
軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、
広島に落とされた原爆の威力を超えたとも言われている。
仮に、最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、
平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、
関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、
若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市
まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたと
推測される。
Google参照 |
被ばくした浦上天主堂
母はこの時、小倉にいた。
8月6日の広島で被災せず、9日の小倉でも被災しなかった。
長崎は母の長姉である伯母の嫁ぎ先だったが、
この時は未だ知る由もない。