「今日のダーリン」より

 

昔から、ぼくは折にふれて「死」に関わることを、
ふだんの話に混ぜているような気がします。
そうすると「縁起でもない」と嫌がられるかというと、
そういうものでもなかったようです。

ぼくの周囲の人たちには、それほど単純な人はいない。
人は必ず生まれて死ぬのだから、死の話をすることも
わりと自然なことだと思っているのでしょう。

もっと若いときのほうが、死の話はしやすかった。
それは「やや他人事」のようなかたちで、
少し観念的なくらいの感じで話せるからでした。
そして、ほんとうに死が近くなっていくときには
どうなるだろうということも考えていました。


で、今、昔にくらべてずいぶんと死は近くなりました。
できるだけ、これまでのように死を語りたいですが、
これまでのように死そのものでなく、
「死が来る」ことへの手続きのほうが、
考えることがあると知りました。
それはつまり、旅をしている最中に、
いずれは家に帰るということを考えるのではなく、
「帰り支度」があるということに気がつくみたいな。

よく、「あ、そっか」と思うことがあるのです。
たとえば、ぼくは手元に古いかたちのモンブランの

万年筆を持っています。

吉本隆明さんの形見分けとしてもらった万年筆を
修理して使えるようにしたものです。
もう吉本さんは亡くなってるから使えないわけで、
だからぼくのところにやってきたのですが。


たとえばこれ、ぼくが死んだ場合にはどうなるのか。
気に入って持っているもの、いいなと思って買ったもの。
ティラノザウルスの歯だとか、イヤホンの数々とかもね。
ぼくが死んだ場合には、すべて「処分」されるわけです。


ぜんぶがぜんぶ、だれかがほしいと言うはずはない。
そういうものを、残して死ぬのはなんか残念ですよね。
また、伝えれば伝えられるはずの「考え」とか
「方法」とかも、伝えなきゃ死んで消えちゃいます。
死というのは、「死がある」のではなく、
個人の総体が「消える」、そういう側面も持っています。
こういうことは、若いときには考えてませんでした。

 

昔よりケチになって同時に気前よくなってもいるようです。

              

                  糸井重里
 

 

 

 

 

 

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