コメントへのレス。(ドキュメンタリーについてのあれやこれ) | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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そもそも全ての映像作品はドキュメンタリーであるという基本原則をもたねばなるまい。フィクション映画にしても、それは多くのスタッフの仕事の結果が活写されているドキュメントである。さて、それではドキュメンタリーとフィクションの違いはどこにあるのだろうか。それはメッセージにほかならない。


メッセージを伝えたいがために映像を紡ぐ。フィクションにしろ、ドキュメンタリーにしろ、メッセージが正しく伝わるよう素材をかき集めたり撮影を繰り返したりして作品を完成させる。それ即ちフィクション映画である。メッセージのためなら、俳優が求めている演技を披露してくれるまで何度でも撮り直すし、シマウマがライオンを追い払う絵が欲しかったら、その素材が手に入るまで待ち続ける。フィクション映画の本質は作り手の伝えたい見せたいと思っているメッセージ(こういうエンターテインメントが好きだぜ!とか、○○○を食べるなんてどうかしてるぜ!的なメッセージも含む)にこそある。


ドキュメンタリーとはそういうものではない。ドキュメンタリーとはドキュメントの側にメッセージ性が含まれているものを指す。つまり作り手がメッセージ性を持って撮影に挑むような作品は、既にドキュメンタリーではない。逆に、海外では再現ドラマのこともドキュメンタリーと呼ぶことがある。即ち、その真実の実話にこそメッセージが含まれているのであり、その真実の実話を忠実にドラマに再現したのならば、それが再現ドラマの類であろうともドキュメンタリーと呼ばれるのである。多くの実話をもとにしたフィクションがフィクションだと注釈を入れるのは、メッセージ性がドキュメント側(実話)にあるのでなく、作り手の意図したところにありますとの表明なのである。


なにが言いたいのかと言えば、図鑑のような映画があったとしたならそれはやはりフィクションである。ドキュメントには図鑑のような理路整然としたものはない。説明はドキュメントにはもっとも加味してはならないものではる。しかしドキュメンタリーにもTVサイズと映画サイズのものがあり、TVサイズのドキュメンタリーに特徴的なのが、自分が何故この作品を撮ったのかという切っ掛けとも呼ぶべき動機が表明されているところ。


例えば、“私は年末年始の新宿のホームレスを○○という切っ掛けから興味を抱き、撮影させてもらうことにした”みたいな動機を表明する。この動機の表明があることで、視聴者も作り手と同じ意識でドキュメントを探求する意識がもってくれる。大事なところは動機付けしてもそのドキュメントを自分の感想で補足しないことだ。感想を補足したくなるようなドキュメントは失敗作である。


日本のドキュメンタリーの多くは劇場公開されていてもTVサイズである。でもそれでいいとは思っている。そういうフォーマットでも映画性を獲得することはできるのだから。昨年話題だった「エンディングノート」と「がんばっぺ フラガール!」。どちらも同じようなフォーマットで撮られていて、多くの日本人を惹きつけた。わたしも多いに泣かされた口である。ただ、映画性という観点からすれば、前者にはあるが後者にはなかった。そこにこそ本質的な大きな違いがあるだろう。


つまりドキュメンタリーがつまらないのは、ドキュメンタリーだからやフォーマットがどうだからとかではなくて、映画性が欠如しているからだというところに行き着く。動物をたんに沢山撮り溜めて編集し、自然て素晴らしいよねとメッセージ配信しているようでは映画にならない。逆に動物園の檻の中にいる動物をたんに捕り溜めて提供すればドキュメントなるかもしれない。フィクションは監督だけの勝負ではない。俳優や映像も観客の興味を惹く要素だ。だから監督が不発でも全面敗北はなかなかしない。だが、たいていのドキュメントは監督単独とのガチンコである。監督の力量不足なら全面敗北もしようがあるまい。そういう結果がコワイからこそ、ガチンコを避けるために動物というファンの多い要素を取り入れたドキュメンタリー映画が乱造されるわけですね。そしておいらもそんな大きな釣り針に釣り上げられ続けてしまう一人です。困ったものである。(おわり)