千葉に行くつもりが神奈川に。(人が読んでも意味がない話) | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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突拍子もないことは起こるもので、皐月賞を観戦しに中山競馬場を目指していた私は、ふと我に返って、“なかやま”の一駅前の“鴨居”で停車中の東急東横線車両から飛び出した。自分のことながら最初なにをしてしまったのか理解するまで時間が必要だった。駅ホームからは見知らぬ風景が眼前に広がっている。私は、どうやら、いつもの間にか千葉県船橋にある中山競馬場に行くつもりが、神奈川県横浜市にある“中山”を目指してしまっていたようなのである。“鴨居”と刻印された駅名板を見上げて、途方に暮れる。いまさら競馬場に向かったところでゆうに2時間はかかる。一度頭の中を白紙に戻して“鴨居”で降りてみるのも一孝か。ならばホームに何時までも突っ立っているのも興が削がれるというもの。先ほどから爽やかな風を届けている眼前に流れている川にかかった橋のところまで行ってみよう。人生はほろほいな。いつだって計画通りにはいかないものです。




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“鴨居”駅の改札を抜け、ホームから見えていた橋を目指す。橋には“鴨池橋”と名がついていて、川は“鶴見川”というそうだ。なかなかいいところじゃないか。私は風に当たりながら、皐月賞の未練を断ち切った。しかし縁というものはあるもので、鶴見川といえば、アゴヒゲザラシのタマちゃんが出没した川である。このような場所に野生のアゴヒゲアザラシが顔を覗かせれば、それはもう観光スポットになるのは当たり前。タマちゃん見たさで連日集まって騒いでいた住人たちの気持ちも、同じ場所に立ってみれば頷ける辺鄙さである。失敬な。自分の失礼な考えに突っ込みを入れつつ、では近隣になにがあるのかと聞かれても答えられない。いや少し歩けばきっとなんかしらあるはずだよと私。では確かめてみようということになって、鴨池橋を渡りきり、そのまま直進してみることにした。


私は本当に映画館に取り憑かれているのではないかと思う。「なにが出るかな なにが出るかな」と人目もはばからず鼻歌交じりで前進していた私が最初に視界に捉えたのは、遥か遠方にそびえ立つシネコンの入ったショッピングモールの一辺だった。その一辺が最初に歩行者の目につく箇所であることを、設計者が認識しているからなのか、そこには見慣れたTOHOシネマズのロゴが掲示されている。ショッピングモールは、“ららぽーと横浜”という名称がついているらしく、それにならってTOHOシネマズにも“TOHOシネマズ鴨居”でなく“TOHOシネマズ ららぽーと横浜”という名称が付されていた。


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「入ったこほのない映画館りは入ってみるのれす」道中見つけたコンビニエンスストアで購入したおにぎりを頬張りつつ、館内に潜入。おお、TOHOシネマズなのに赤をメインカラーに設定していないなんて! 色が変わるだけで別劇場のようではないか。一面ウッド調で統一された館内はシックで落ち着いた印象を醸し出している。最初に目に付いたのは、圧倒的な休憩スペースの数。広いフロアー空間の端々に休憩スペースが設置されている。家族連れも納得の設計コンセプトだ。しかし本館について書くならばデザインについて書いたほうが面白い。目の前に広がる最上階に向けて壁一面を利用してデザインされた“巨大なソレ”。バベルの塔に見えなくもない“巨大なソレ”は、近づいてみなければ階段であることすら分からない。全てのシアターは1階にあるのだが、プレミアスクリーンだけ最上階に存在させることによって、長いエスカレーターでの昇りを余儀なくし、高級感を演出する仕様となっている。この“巨大なソレ”いやさ“階段”は、プレミアスクリーンを利用したものだけが、降りてこられる天上人下界に降りる的階段なのである。中に入るとデザイン重視で、とことんデッドスペースが多い無駄な設計。なんたる趣味の世界。デッドスペースには昨夜から放置されっぱなしのものと思われるゴミがいたるところに落ちていた。設計した頃の理念いやさ理想が破綻したなれの果てを垣間見た思い出、寂しさを覚えた。オープン前に一通りチェックしようぜ。つまるところ、この階段そのものがスタッフ側においても存在しないかのごとく扱われているのである。所有者にも管理を放置された空間には、その空間に相応しい者達が居着く。下には平和を顔に貼り付けた家族の群が我が物顔で騒ぎ立て、居づらい者どもが上へ上へと階段を昇るのである。ここにも社会的な二層構造を垣間見た気がした。


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ゴミがあのバベルの塔の中腹あたりに散らかっていたよと受付に教えつつ、折角なので、私も一本観賞してから帰ることにした(バベルの塔でも伝わった)。早々と「おっぱい一枚」と言ってみるのも一つの手だが、滅多にないことであるから、常用劇場まで取って置きたい。そうとなれば、「鴨川ホルモー」こそがこんなヘンテコな一日には相応しかろう。それに本作の原作本を昨夜手に入れ、読み始めたところだ。まさに「マカロニの上のパルミジャーノ」とはこのことである。因みに、私は「鴨川ホルモー」という作品に一切の愛着がない。映画も観る気がなかったし、原作を読む気もなかった。しかしながら、私のマイミクが、この「鴨川ホルモー」をえらく気に入っているということを耳にし、それならサイン入りの原作本を来年度のアカデミー賞予想対決の景品の目玉にしようと考え、サイン本を手に入れるべく試行錯誤した挙げ句、昨夜とうとう手にいれた次第なのである。そのような手間をかけて手に入れたサイン本をなぜ未読の状態で渡さないのかは、未読の状態だと相手が必要以上に喜んでしまうからであると答える。おいらの手垢がついているくらいが贈るぶんには丁度良い(それに誰にも読まれない小説ほど不憫な物はないのだ)。昨夜手にして数ページ流し読んだら、これがもう止まらない。数時間で半分読んでしまう勢いだった。


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私が今このようにサイン本を来年度の景品の一つに考えていると早々と公言するのにはわけがある。それは、本作を結果的に約1日で読み終えてしまった私のこと、本サインの存在をこのまま公言せず放置しておけば、いずれ相手に贈ることが躊躇してしまうのではないかということだ。サイン本などというものに一切の興味がなくとも、読んだ本に愛着がわけば別問題である。それを防止する意味でも公言するのには、意味がある。


話しそれたついでに、ここで筆を置こう。つまるところの珍道記を書く気でいたが、千葉に向かうつもりが神奈川に行ってしまったという一ネタだけで、話しが膨らむわけもない。相手への景品一つゲットしたよという報告として処理すれば、この場はきっと切り抜けられるに違いない。今本投稿用に写真を撮ったら、署名落款以外にもホルモオオオーッとの記載まで発見してしまったではないか。うむなおのことよし。(おわり)