蕎麦一考。 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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短期間に5件も蕎麦屋を漫遊していると、おいらの脳の一部に蕎麦脳とも呼べる部分ができてくる。こうなればしめたもので、おいらが仕事していようと寝てようと、その部分は蕎麦について考えてくれているので効率がぐっとよくなる。(嘘だと思われるだろうが本当の話)


残念ながら、5件中一件だけ、満足できなかった蕎麦屋があったのが切っ掛けとなって、蕎麦とは何かという当たり前の前提についてかってに検討を試みることとなる。一度“蕎麦”というものに疑問を抱いたら最後、その全てが信用できなくなった。蕎麦とはなんだろうか。そういえば、誰からも教わったことも勉強したこともなかった。食べ方も周囲の見様見真似。ようするに何一つ蕎麦について知っていることがなかったのだ。


そこでおいらの蕎麦脳が、“これから蕎麦とおいらが正しく向き合うために”というレポートを作成してくれたので、これからはそれを大いに参考にして食べていきたいと思う。まず“蕎麦は香りを楽しむもの”だとよく聴く。だが、ざるに盛られた蕎麦に鼻を近づけてみても臭いは伝わってこない。蕎麦は香りなどしないのだ(店主に確認済み)。あたたかい蕎麦などに到っては、かつおなどの出汁の香りが立ち上っていて、あたたかい蕎麦の香りなどないに等しいのではなくて、ずばりない(基本的に邪道な食べ方なのだ)。さらには冷たい蕎麦を食べる際とて、つけ汁につけてしまっては、やはりつけ汁の香りが強いので、蕎麦の香りなどするよしもない(だから通はつけ汁に蕎麦をほとんど浸さないのである)。


蕎麦は香りを楽しむというのは嘘だったのだろうか。いやさ、それは真実だと結論付けたい。蕎麦には、王貞治監督の娘さんを持ち出すまでもなく、特殊な食べ方がある。音をたてて吸い込むというソレだが、この蕎麦の食べ方と他麺類の食べ方を一緒にしてもらってはいけない。ここを一緒くたにしてきたのが、日本人の戦後以降の負の功罪といってもいい。中華そばやうどん、そして温かい蕎麦は、なにも“音をたてて”吸い込む必然性はない。たんに“吸い込んで”食べればいいだけなのである。自分をよく観察すれば、中華そばやうどんでわざわざ音をたてて吸い込んでいないことに気付く。逆に蕎麦屋で観察眼を開けば、年輩の方は皆一様に音をたてて吸い込んでいることに気付くだろう。この“音をたてる”とい行為こそに、蕎麦を美味しくいただく秘密が隠されているのだとおいらの蕎麦脳は結論付けた。


でもって“ワイン”と“蕎麦”の関係をリンクさせる。音をたてて吸い込む=空気と一緒に吸い込むということ。そして多くの空気と蕎麦を摩擦によって混ぜ合わせながら(←音源)吸い込み、それを肺には入れずに鼻に抜くのである。ただ鼻を近づけただけでは嗅ぐことのできない蕎麦の香りが、これで始めて人間の嗅覚でも感じることができるようになる。先人の知恵なのだろうけど、よく考えついたものだ。素晴らしい。


蕎麦を噛む行為も、噛みつつ鼻に空気さえ抜ければ、蕎麦の香りを楽しむことができるだろう。人間は食べながら香りを嗅いでいると思っているのは錯覚で、鼻をつまんでミントガムを食べていただければ分かっていただけると思うが、本来は食べるだけではなんの香りもしないもの。鼻をつまんでガムをよく噛んでから鼻を解放すると、ミントの香りがぶわっと一瞬流入してきたような気がする。これが鼻に抜けた瞬間である。しかし食べながら鼻に抜くという行為は出来てるようでいて、じつは人間はまったくやっていない。やれないのだから致し方ない。ある程度噛んだら鼻に抜くといったコンビネーション作業を意識して行うしかない。ただこれはこれで思ったほどの効果はない。やはり蕎麦の香りを味わうためには、最初の“音をたてて”吸い込んで鼻に抜く瞬間以外にはないと結論付けたい。


いずれ出向くことになるだろうが、山奥の本気の蕎麦処などは、客に一切の薬味を出さないのだそうな。薬味の香りが蕎麦の香りを台なしにしてしまうからだとか。なるほど。蕎麦の香りとは、かくもはかなくセンシティブなものなのであるのか。(おわり)