アメリカ New Hampshireより

アメリカ New Hampshireより

留学先でのできごと
英語教育に関して
日本のこと

なんか考えたことを書きます。

まだまだ勉強中。未熟者なのは百も承知。でも、そういう甘えが通用する歳ではもうないと思ってます。ここで自分の考えを発信していって、何か、誰かの役に立てればと。
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どうも。夏学期終わりまして2週間休みです。前々からいろいろと不満はあったアメブロですが、この度お引越しすることにいたしました。本当は、留学から帰ってきたらこのブログ名も変えて心機一転ブログお引越ししようかと思ってたのですが、なんかWordpressいじってたらもういっか別にという気になってしまいました。お手数ですが、ブックマークやRSS購読していただいた方は新しいサイトのアドレスに変えていただけると幸いです。

→ http://tam07pb915.hotcom-web.com/wordpress/
特に内容があるわけではないんですが、Twitterでシェアするよりもブログでまとめたほうがいいかなと思ったので書いておきます。

一時期英語学習にTEDみたいな感じで爆発的に流行った時期あったじゃないですか?NAVERまとめとかがたくさんできたりしてTwitterでシェアされまくってみたいな。今はもう出尽くした感みたいなのがあるのかそこまで話題になってませんね。僕はたまにYouTubeで新着配信される動画なんか見たりしてますけど。それで、僕はiTunesUのビデオを見ることがよくあるんですね。Stanford Universityが配信している教育系のシリーズだったりとか。ドラマとか見るのと同じ感覚で。

Stanford University - Center for Teaching and Learning - http://itun.es/i6j423T

それで、最近は、というか結構前から、統計のお勉強しなきゃいかんなというのをひしひしと感じているんですね。一応肩書きは院生なのですが純粋な「研究」とは離れたところにいるので、今勉強していることに関しては統計的知識が必要なわけではないのですが、学術研究論文を読むことも多いですし、英語教育研究の分野の話でも頻繁に出てくる話なので無視はできないよねということで。もちろん例えば教員になったときに、成績をつけたりとか評価をしたりなんていうときにも必要なものだと思います。残念ながらそういう知識や技術を体系的に学ぶ機会が教員養成課程にはない(少なくとも僕が卒業した大学にはありませんでした)というのはなんだかなとは思いますよね。それで現場に放り出されて右も左もわからずに、テストを作って成績つけて、クラスの平均点とかを発表して生徒たちを一喜一憂させてるわけですよね。入試の話になるとよく出てくる偏差値というのも同じです。

話が逸れました。それで、iTunesUで統計関係の講義を探してたら入門編があったので、つまみ食い程度にこれをやってみたり。

Harrisburg Area Community College - Introduction to Statistics - http://itun.es/i6jN3qd

PCの画面で先生が説明しながら作業するのを見て学ぶって感じですかね。PC画面上の手書き文字汚くてつらいですけどw コチラの本も購入したので、少しづつ読んでます。

外国語教育研究ハンドブック外国語教育研究ハンドブック―研究手法のより良い理解のために/松柏社

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さて、前置きが長くなりましたけれども本題はここからでしてw そのiTunesUにTEDのコースもいくつかあるんですね。それでおおこれはと思って、ワクワクしながらStatistics関連のやつをダウンロードしてみたんです。

TED - Visualizing Data - http://itun.es/i6j428Y

なにが特別なんだろうなと。そしたら、ただ関連するビデオが6本収録されていて、その後に、「これを見終わったら、ディスカッションに参加しよう」とかってリンクに飛ばされるだけなんですねw まあ動画を見ながらメモを取れるみたいな機能がついてるのでただ動画をダウンロードして見るよりはちょっとはあれなのかなとは思いますけど。でもその動画はやはり精選されているだけあって面白かったですね。以下TEDの埋め込みコードはアメブロで禁止されてるぽいのでYouTubeの動画を貼っときますね。タイトルにもあるように、「わかりにくいデータを'visualize'によってわかりやすく、読み取りやすくしようよ。」というのが共通点ですね。僕が特にすごいなと思ったのは2つ目の動画ですね。

David McCandless: The beauty of data visualization




TEDのタイトルとYouTubeのタイトルが違いますが動画は一緒です。このHans Roslingさんの動画はTEDでの視聴数トップ20にも入ってました( TEDで最多視聴数を稼いだ講演のトップ20–今年はSteve Jobsらも入る)。「8月で今年の?」とは思いましたけど。データってのはこうやって見るものだよというのを教えてくれます。見ながら思わず「おおお!!」と興奮しました。

Hans Rosling: Stats that reshape your world-view



Nathalie Miebach: Art made of storms




これも、一瞬なんのことなんだろうと思いますが、なるほどそういうことかとびっくりするような数字がたくさんでてきます。

Chris Jordan: Turning powerful stats into art




Blaise Aguera y Arcas demos Photosynth




この最後のやつはすごいですね。こんなことできんのかよすげえな技術革新てっていう感じでした。子どもが言葉を発する過程を記録して追うとかすごいですよね。こういうことからも言語習得の謎は解明されていくんでしょう。後半部分は一般意志2.0で提唱されているようなデータ分析系の話にかなり近いというかこういう技術を応用すればああいうシステムも夢じゃないだろうなと思えました。 

Deb Roy: The birth of a word



で全て見終わって考えたんですが、こうやってデータを解釈してわかりやすく提示するという技術はとても重要でこういう技術はこれから大事なんだろうなと思いました。しかし同時に「わかりやすく提示されたデータ」を「疑う目」というのももっていなければいけないのだろうなとは思いましたね。そんな感じ。

では。


アメリカ New Hampshireより。


おしまい。
今現在夏のタームBに入って半分を過ぎました。履修しているのはSociocultural Context of Language Teachingという授業。教科書を2冊ともKindle版で購入したので、Kindleアプリで読みながらたまに気になった箇所なんかにコメントをつけてTwitterに流したりしています。マーカーを引いたところもリンク先に表示されるので結構便利ですね。(僕がツイートしたものはこちらのtwilogへどうぞ→ http://twilog.org/tam07pb915/hashtags-Kindle)

Sociocultural Contexts of Language and Literacy/著者不明

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さて、授業名が、”Sociocultural Context of Language Teaching” ということで、いったいどんなことを勉強しているかというと、要するに社会言語学的な切り口から言語教育を考えるという感じですかね。教科書のうちの一つでは、社会科学という枠組みにおける研究の歴史を概観しつつ、実証主義的立場への批判をしたのちに言語教育という事象を研究するにあたっての社会文化的な側面の重要性を説いています。その後、文化的そして言語的に多様な子どもたち(culturally and linguistically diverse children)に対して、どのような教育がなされるべきであるのかという話と、現実の教育制度が抱える問題点を指摘しています。

Language Diversity and Education/David Corson

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テキストの詳しい内容に関しては、後日別の記事でまとめられればいいなとは思います。今日は自分が授業を通して感じていることをつらつらと。

まず一番は当たり前ですがアメリカをはじめとする移民を積極的に受け入れている国や、国の中で言語的あるいは文化的なマイノリティが存在している国と日本では、その問題に対する認識の違いが大きいなと感じています。日本は単一民族国家であると言われますし(これが本当に正しい表現であるかということは置いておきます)、アメリカに比べればマイノリティの問題が国家的な問題になるほどにはその割合が大きくないということではあると思いますが。ですがこの問題がないというわけではないと思います(例えばアイヌの人たち)。

しかしながら、僕が育った環境ではこの言語的・文化的マイノリティの存在を肌で感じたことは今までありませんでした。様々な地方出身者と出会った大学でも、そこで出会った人たちは、大学受験をするだけの学力と意欲があり、またそこにリソースを投じる金銭的余裕もあり、受験でスクリーニングされたとはいえ(むしろだからこそ?)ほぼ中流より上の人たちであったわけで、本当にマイノリティであったとすればそもそもそのステージにすらあがれないというのが残念ながら現実ではないのかと思うのです。地方独特の文化や言語使用がみられたとしても、それよりはるかに日本という国単位で共有しているもののほうが多いのではないかとも思います。

また、「言語的に」といっても日本語が読み書きできない人たちはかなり少数でしょうし(wikipediaには識字率99%と出ていますが、近年日本では非識字率者を調べる調査は行われておらず、就学率をもって識字率とみなしているそうです(参照:識字率の調べ方)、日本語の中でも例えば「方言(教科書ではdialectを避けてvarietyという表現が使われていますが)」がその人の「母語」であったとしても、教育を通してスタンダードとされる東京方言を身につけている人が多いでしょうし、そもそも教育で方言を抑圧してスタンダードの東京方言を強制するような風潮はあるんでしょうか?僕はそのような環境になかったのでわからないのですが… それともその東京方言の使用の強制がなんの疑問も抱かれずに「それが当然である。」と受け入れられているということでしょうか。もしそうであると仮定して、しかしそれでも各地方でその地方特有の方言を話す人たちが今もいることを考えると(どんどん減ってきているかもしれませんがそれは単に人口自体が減っているのであって支配言語(東京方言)による抑圧によって減っているのではないと考えます)、日本の学校教育制度における日本語教育というのは成功しているといってもよいのではないかと思います。これからどうなるかは別ですしアメリカとはまったく異なる社会文化的な特徴をもった国ですから、単純に比較はできないわけですが、この教科書で議論されているような問題は日本では解消されている(教育が成功している)ということだと思います。

ただし、この問題を考えていると学校教育という制度自体が抱える根本的な矛盾に気づかされます。これは最近Twitterをやっていても考えさせられたことなのですが、つまり、教育とは大多数が決めた(少数を無視した)スタンダード(standard)や規範(norm)をマイノリティグループにも押し付けるということです。そしてそれが正義(justice)であるということです。

無論、国家を形成するにあたってある一定の規範やルールというものは必要ですし、言語もその中に含まれるでしょう。それが大多数の意見によって決まる。生まれたときにマイノリティのグループであるかマジョリティのグループであるかによってもう差がついているわけです。しかしそれを是正するためのシステムとして教育がある。平等にするために不平等を押し付ける格好になっているわけです。正直に言ってしまうとそれは「しょうがない」としか言いようがない気もします。将来の損得を理由にするのはよくない、そうは言いたくない、(例えば「将来英語が必要だから勉強しろ、そうじゃないと損するかもしれない」とは言いたくない)けれども、もっと根本的な学習以前のところでは、大多数の論理に従わないという選択をとることによって不利益を被る可能性があることなんてたくさんあるわけです。例えば日本でいえばあいさつをしろとか人の目を見て話を聞きなさいとか服装や身だしなみや礼儀とか。しかしそういうのはその子の育った環境に多いに依存するわけです。普通がもしかしたら普通じゃないことだってありうるわけです。「それが普通。」は日本なら通じるでしょう。でもアメリカでは「アメリカの普通」をアメリカにいる全員に強制すること、アメリカの規範、英語の規範に基づいて教育することが本当に正しいことなのか、むしろそれは正しくないのではないかということがまさに問題になっているわけです。だからといって、何十、あるいは細かく分けていけば百を超えるかもしれない言語的・文化的なマイノリティの子どもたちすべてにそれら独自の言語や文化に基づいた教育をすることはとても現実的ではありません。この多様性の承認と、教育という行為は本来同時には成り立たないわけです。正確に言うと、全ての多様性を認めることはできないということです。教育という行為が行われる場での規範に従った上での多様性は認めるがそれにそぐわない場合は認められないというわけです。

主にTwitterで、しばしば日本の同調圧力や、人と違う意見が認められないといった「雰囲気」を問題視する人がいます。それはきっと教育が作り上げたものなのだと思います。では教育を変えよう。多様性を認めよう。ということができるのか。これが難しいのです。なぜなら教育には規範が必要で、その規範とはその国の文化に根付いた大多数の論理だからです。これだけ同質性の高い国であっても、なにか息苦しさを感じたり、周りに合わせるのに違和感を感じる人はでてしまう。これをどうにかするのは大変難しいことであるように感じます。時代はどんどん変わっているわけですが、「そのおかげでうまくやってきた」ことは事実だと思います。もちろんだからこそそのやり方がこれからも通用するとは限らないのですが。

日本を批判する人の中には「欧米」をもちあげて、その中でも米の教育を素晴らしいという人がいます。本当にそうでしょうか。僕はアメリカの教育もマイノリティには優しくない制度だと感じています。アメリカの中でもupper-middle classの人たちにはよいかもしれませんが、それ以外の言語的・文化的マイノリティの子どもたちにとって適切な教育が用意されているとは言いがたいのがアメリカ全体で見た場合の教育の現状だと思います。比較的に白人の割合が多い僕のいるNH州ですら、そしてその中の最大都市(つまりお金がある)Manchesterにおいてもそういう問題は表面化しているのですから、移民の割合が多い州ではもっと厳しいと思います。

まあそんなわけで、教員になる。教育に従事する。ということはこのような教育が内包した矛盾を自分で飲み込んでやっていかなければいけないのだなというようなことを考えたのでした。


では。


アメリカ New Hampshireより。


おしまい。