今現在夏のタームBに入って半分を過ぎました。履修しているのはSociocultural Context of Language Teachingという授業。教科書を2冊ともKindle版で購入したので、Kindleアプリで読みながらたまに気になった箇所なんかにコメントをつけてTwitterに流したりしています。マーカーを引いたところもリンク先に表示されるので結構便利ですね。(僕がツイートしたものはこちらのtwilogへどうぞ→
http://twilog.org/tam07pb915/hashtags-Kindle )
Sociocultural Contexts of Language and Literacy/著者不明 ¥4,367
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さて、授業名が、”Sociocultural Context of Language Teaching” ということで、いったいどんなことを勉強しているかというと、要するに社会言語学的な切り口から言語教育を考えるという感じですかね。教科書のうちの一つでは、社会科学という枠組みにおける研究の歴史を概観しつつ、実証主義的立場への批判をしたのちに言語教育という事象を研究するにあたっての社会文化的な側面の重要性を説いています。その後、文化的そして言語的に多様な子どもたち(culturally and linguistically diverse children)に対して、どのような教育がなされるべきであるのかという話と、現実の教育制度が抱える問題点を指摘しています。
Language Diversity and Education/David Corson ¥3,340
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テキストの詳しい内容に関しては、後日別の記事でまとめられればいいなとは思います。今日は自分が授業を通して感じていることをつらつらと。
まず一番は当たり前ですがアメリカをはじめとする移民を積極的に受け入れている国や、国の中で言語的あるいは文化的なマイノリティが存在している国と日本では、その問題に対する認識の違いが大きいなと感じています。日本は単一民族国家であると言われますし(これが本当に正しい表現であるかということは置いておきます)、アメリカに比べればマイノリティの問題が国家的な問題になるほどにはその割合が大きくないということではあると思いますが。ですがこの問題がないというわけではないと思います(例えばアイヌの人たち)。
しかしながら、僕が育った環境ではこの言語的・文化的マイノリティの存在を肌で感じたことは今までありませんでした。様々な地方出身者と出会った大学でも、そこで出会った人たちは、大学受験をするだけの学力と意欲があり、またそこにリソースを投じる金銭的余裕もあり、受験でスクリーニングされたとはいえ(むしろだからこそ?)ほぼ中流より上の人たちであったわけで、本当にマイノリティであったとすればそもそもそのステージにすらあがれないというのが残念ながら現実ではないのかと思うのです。地方独特の文化や言語使用がみられたとしても、それよりはるかに日本という国単位で共有しているもののほうが多いのではないかとも思います。
また、「言語的に」といっても日本語が読み書きできない人たちはかなり少数でしょうし(
wikipediaには識字率99%と出ていますが 、近年日本では非識字率者を調べる調査は行われておらず、就学率をもって識字率とみなしているそうです(参照:
識字率の調べ方 )、日本語の中でも例えば「方言(教科書ではdialectを避けてvarietyという表現が使われていますが)」がその人の「母語」であったとしても、教育を通してスタンダードとされる東京方言を身につけている人が多いでしょうし、そもそも教育で方言を抑圧してスタンダードの東京方言を強制するような風潮はあるんでしょうか?僕はそのような環境になかったのでわからないのですが… それともその東京方言の使用の強制がなんの疑問も抱かれずに「それが当然である。」と受け入れられているということでしょうか。もしそうであると仮定して、しかしそれでも各地方でその地方特有の方言を話す人たちが今もいることを考えると(どんどん減ってきているかもしれませんがそれは単に人口自体が減っているのであって支配言語(東京方言)による抑圧によって減っているのではないと考えます)、日本の学校教育制度における日本語教育というのは成功しているといってもよいのではないかと思います。これからどうなるかは別ですしアメリカとはまったく異なる社会文化的な特徴をもった国ですから、単純に比較はできないわけですが、この教科書で議論されているような問題は日本では解消されている(教育が成功している)ということだと思います。
ただし、この問題を考えていると学校教育という制度自体が抱える根本的な矛盾に気づかされます。これは最近Twitterをやっていても考えさせられたことなのですが、つまり、教育とは大多数が決めた(少数を無視した)スタンダード(standard)や規範(norm)をマイノリティグループにも押し付けるということです。そしてそれが正義(justice)であるということです。
無論、国家を形成するにあたってある一定の規範やルールというものは必要ですし、言語もその中に含まれるでしょう。それが大多数の意見によって決まる。生まれたときにマイノリティのグループであるかマジョリティのグループであるかによってもう差がついているわけです。しかしそれを是正するためのシステムとして教育がある。平等にするために不平等を押し付ける格好になっているわけです。正直に言ってしまうとそれは「しょうがない」としか言いようがない気もします。将来の損得を理由にするのはよくない、そうは言いたくない、(例えば「将来英語が必要だから勉強しろ、そうじゃないと損するかもしれない」とは言いたくない)けれども、もっと根本的な学習以前のところでは、大多数の論理に従わないという選択をとることによって不利益を被る可能性があることなんてたくさんあるわけです。例えば日本でいえばあいさつをしろとか人の目を見て話を聞きなさいとか服装や身だしなみや礼儀とか。しかしそういうのはその子の育った環境に多いに依存するわけです。普通がもしかしたら普通じゃないことだってありうるわけです。「それが普通。」は日本なら通じるでしょう。でもアメリカでは「アメリカの普通」をアメリカにいる全員に強制すること、アメリカの規範、英語の規範に基づいて教育することが本当に正しいことなのか、むしろそれは正しくないのではないかということがまさに問題になっているわけです。だからといって、何十、あるいは細かく分けていけば百を超えるかもしれない言語的・文化的なマイノリティの子どもたちすべてにそれら独自の言語や文化に基づいた教育をすることはとても現実的ではありません。この多様性の承認と、教育という行為は本来同時には成り立たないわけです。正確に言うと、全ての多様性を認めることはできないということです。教育という行為が行われる場での規範に従った上での多様性は認めるがそれにそぐわない場合は認められないというわけです。
主にTwitterで、しばしば日本の同調圧力や、人と違う意見が認められないといった「雰囲気」を問題視する人がいます。それはきっと教育が作り上げたものなのだと思います。では教育を変えよう。多様性を認めよう。ということができるのか。これが難しいのです。なぜなら教育には規範が必要で、その規範とはその国の文化に根付いた大多数の論理だからです。これだけ同質性の高い国であっても、なにか息苦しさを感じたり、周りに合わせるのに違和感を感じる人はでてしまう。これをどうにかするのは大変難しいことであるように感じます。時代はどんどん変わっているわけですが、「そのおかげでうまくやってきた」ことは事実だと思います。もちろんだからこそそのやり方がこれからも通用するとは限らないのですが。
日本を批判する人の中には「欧米」をもちあげて、その中でも米の教育を素晴らしいという人がいます。本当にそうでしょうか。僕はアメリカの教育もマイノリティには優しくない制度だと感じています。アメリカの中でもupper-middle classの人たちにはよいかもしれませんが、それ以外の言語的・文化的マイノリティの子どもたちにとって適切な教育が用意されているとは言いがたいのがアメリカ全体で見た場合の教育の現状だと思います。比較的に白人の割合が多い僕のいるNH州ですら、そしてその中の最大都市(つまりお金がある)Manchesterにおいてもそういう問題は表面化しているのですから、移民の割合が多い州ではもっと厳しいと思います。
まあそんなわけで、教員になる。教育に従事する。ということはこのような教育が内包した矛盾を自分で飲み込んでやっていかなければいけないのだなというようなことを考えたのでした。
では。
アメリカ New Hampshireより。
おしまい。