龍蔵の「アキレス腱」にも 例外あり?
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他篇で、龍蔵の「アキレス腱」とは
日常的なことに気づかないこと、とあったが・・・

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一家で食卓を囲み、
きみ子夫人の手料理を頂くのは
楽しい団欒のひと時、

家族は皆くつろぎ、
天才学者龍蔵のこと、
誰も特に気にしていないのだ、

いばったり、
むずかしい話など一切しない、
優しい夫で、お父さんだから、

皆自由自在に振る舞い
料理上手のきみ子夫人の手料理を
「美味しい、美味しい!」と
頬張っていた・・・

日常的なことには、
何も気づかない龍蔵だ と思うから、
余計気楽なのさ!

そんな「席上」、突然
龍蔵が真顔になって、
長女の幸子に向かって言った:

「女性に口ひげ がある のはおかしい」
「ちゃんと 気をつけなさい」と。

皆、一瞬、えっ!と、びっくりした、
「何にも気づかないはず」の龍蔵
意外と気づくこともあったのだ!

見ると、あれ?幸子の口の上側に
うっすら黒ずんでいた「ひげ」あり、
確かにおかしい!

龍蔵がよほどそれが許しがたく、
がまんの末の「発言」のようだ?

その長女幸子とは、暗記好きの
「生徒会長」タイプ、家政専攻?
龍蔵の研究に関心はないが、
きみ子夫人のサイフ管理には参入しようと、
きみ子夫人にうるさがれたみたい。
大金持ちと結婚するのが彼女の夢だった。

龍蔵はこれらを察し、
やむをえない時以外、
彼女に助手を頼まないようにしたらしい。
そのスケッチも、兄弟たちと比べ
目だって下手なものだった。

兄弟に似ないその外見と性格に
「モンゴル調査の時、
赤ちゃんをすりかえられたのでは?」
と、きみ子夫人は
知人たちから冗談を言われたそうだ。

同じ龍蔵・きみ子の子でも、
何人何様で、外見を含み
お互い全く似ていないようだ?

とびぬいて美しいのは龍雄、緑:
程よい彫があって、黒く大きな瞳、
とてもエキゾチックな顔立ち、
丸で中央アジアあたりの美形、
夢の「異邦人」を彷彿させるくらいだ・・・

そして、龍蔵の学問を継ぐ才能を持つのは
龍雄ただ一人しかいなかったようだ?彼は

語学堪能で、抜群な学問習得能力を持ったが・・・

しかし、「天才は夭折する」とおり、
龍雄は若く(21歳?)パリでなくなった、
龍蔵ほど頑健な体質はまだ鍛え上げてなかった?

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さて、話を戻すが、

事後、きみ子夫人と皆が感心した:
なにも見ていないかのような龍蔵が
こんなところまで見えていたのは
実に意外だ! と。


「日常的なことに気づかないはず」の龍蔵にも
上記のような 気づくことはあった!

それは、よほど見かねることに限るのだろうか?


だって、その口ひげが余りにも「立派」になり
「憲兵隊長」みたいになったら、手遅れじゃん!


楽しい貴重なお話を下さった方、ありがとう!

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「女性の口ひげ」は許せない龍蔵だが、

あざらしの僕の「口ひげ」だけは 大目に見て!


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スイッチ・パネルを もぐら叩きの龍蔵!

これも龍蔵一家の近親者からのお話だ:

自然科学者で
理系出身の人類学者龍蔵、

その人類学調査の緻密さは
周知のもの、

「考古学調査」と言い、
行き当たりばったり掘りまくる
考古学者?もいるようだが?

それは「もぐらたたき」のごとく
当たり外れが激しい!


しかし、龍蔵の場合、
事前、現地の歴史資料等をできる限り
読み通し、どこに何がある、という
ご自分の地図を
全部頭に入れてから、現場に、

さっと一回りをし、すぐ
その有名な「魔法の杖」で
「ここだ」と、地面の一箇所を叩き、
発掘をスタートさせる。

すると、必ずそこから予期する
歴史的遺跡・遺物が
呼び起こされたかのように、
次々と地中から、「飛び出して」くる・・・
「百發百中」の発掘で、的はずれなしだ!

その迅速で無駄のない発掘は名高く、
日本全国各地市町村から、
龍蔵あての発掘要請が
ひっきりなく舞い込む。

龍蔵記念館の 龍蔵調査時
事前に書い地図はきわめて緻密
理系的計算が施され、
現地の情況を全部把握している、

海外も国内も同様、
正に天才的:
どうしてそこまで分かる?
と聞きたくなるくらいだ!


こんな緻密な天才科学者龍蔵、
普通なかなかできないことを、
軽々こなしていたが、

しかし、日常的な 誰でもできること?に
龍蔵がまったく無頓着で、
どうしてもできないことがある?

例えば、きみ子夫人が訝るに
自宅の電灯のスイッチにつき、
どのスイッチが、どの電灯のものか、
覚えようとしないのか?
いつも分からないのだ!

スイッチ・パネルを把握しない龍蔵、
そのつど、いい加減につけたり消したりで
きみ子夫人を困らせ、結局
きみ子夫人か、誰かが
つけてあげないと、だめ!

「頭がいいのに、なんで・・・?」と
きみ子夫人がいつも首をかしげていた。

つまり、龍蔵は、
関心のないことにつき、
全く頭が働かないようだ?

これも又、きみ子夫人への甘えかも?

日常生活一般につき、正に
龍蔵のアキレス腱といえるかも?

こんな小回りの利かない龍蔵、
普通の会社に勤めたら、
1日で首でしょうか? (失礼!)

「どんなバカでもできそうなこと」を
龍蔵ができなかった!ショック だ!


「天才」と「バカ」は、紙一重? (失礼!)


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あざらしの僕は
限りなく龍蔵を崇拝している、

ほんのほんのちびたる点でも
龍蔵に似通っていたら・・・と
ずっと期待してきたが、
今回こそ 「これだ!」と 思った!

僕も似た天然ぼけありだ!
一瞬うれしかったが、
すぐ気づいた:

龍蔵は「天才」と「バカ」

僕は 「バカ」と「バカ」!

裏を見ても、表を見ても
どうしようもない 一徹した「バカ」だった!
やばい! 喜んでいる場合じゃあるまいだ!

と、ほ、ほ、ほ・・・
海に潜って頭を冷やしてこよう・・・

ケ~ セラセラ、ケ~ セラセラ・・・


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生涯大活躍の龍蔵 どんなスポーツがお好き?

幼い時から、
勉強嫌い、遊び好き、
ガキ大将として、いたずらっ子の群れを率いて
街から自宅のでか~い蔵まで
暴れ周り、「三国」「水滸」のゲームもした・・・
地元名物の「暴れん坊将軍」だった。
やはり龍蔵ご一家と親交の方からのお話です。

今もある「鷲の門」(中央公園)を指して、
「龍蔵はよくこの辺で遊んでいた」と
「鳥居龍蔵を語る会」会長、徳島県立博物館元館長の
の天羽利夫先生はいう。
(多分、正確には「暴れていた」かも?)

その歴史的風格を感じさせる門の近くを
駆ける小さな坊やの姿が目に浮かぶ・・・

城(蜂須賀公のお城?)壁の回りは川、
そこになんと、鵜の姿もある、
彼らは船に停まっている・・・
歴史でも考えているような顔だ?

この門の周辺を、今も
大きな立派な鷲が飛び回り、間もなく
木々の茂った裏山に消えてゆく(龍蔵はここでも発掘)

そこから、鷲たち?の勇壮な声が
響きわたってくる・・・
「龍蔵、龍蔵・・・」と呼んでいた?


さて、そんな「暴れん坊将軍」の龍蔵
どんなスポーツがお好き?

意外?でしょうか?
彼は相撲、モンゴルのも、日本のも
大好きなのだ!

「真ん丸で可愛いお相撲さんが
ころってころんだりで、
勝負が決まってしまう」

「これはシンプルでさっぱり、
気持ちよく観戦できる」(龍蔵大意)

対照的に、ボクシングとなれば、
満面血だらけになっても、お互い
攻撃し続けるようなスポーツに
龍蔵は苦手で、見るに忍びないから
見に行かないそうだ。

以上、「暴れん坊将軍」鳥居龍蔵の
スポーツの好みであります。

多分、そのやさしいハートは
余り過酷なものは、受け止められないのでしゅう。



6月例会のご参考までに

6月例会のお知らせに
「鳥居龍蔵」・「井下清」などの名前が
記されていた、では
この二人はどういうお付き合い?
今の武蔵野文化協会と とうつながる?

簡単には、二人とも「武蔵野会」の創始者、
その後、龍蔵のほとんどの活動は海外
(合間縫っての国内はあるものの
それまで、日本国内をほとんど
調べつくしていた)

だから、龍蔵は25歳からの海外調査を初め(東大派遣)
主要活動舞台は海外になった。
その活動履歴で一目瞭然だ。
(徳島県立「鳥居龍蔵記念博物館」編集『鳥居龍蔵年表』)

国内「武蔵野会」の活動をずっとリードした
のが井下清などになった。
これは、今の「武蔵野文化協会」に、東京都公園課が
深くかかわっていることからもよく分かる。

鳥居龍蔵と井下清、
二人は意気投合で、ともに夢・志人間だ。
その活躍でよく知られるものは、
1923年関東大震災時、
二人は不眠不休活動した:

井下は、救助救命など、
龍蔵は文化財保護・・・
(震災後、龍蔵が『上代の東京と其周囲』に
大震災前後の東京の情況写真対比含み、記載した。
芝公園・浅草・上野・葛飾・・・など地名が出てくる。)

二人の感動的な友情に
下記エピソード がある。

人間の営みにある せつなさ などを
しみじみ痛感させるものだ。

一見天才で幸せの鳥居龍蔵だが、
予想できない悲劇にも見舞われていた、
誰も悪くない というのに・・・
運命のいたずら だとしかいえないのだ!

以下文を、リピート掲載(補足修正あり)致します:



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「感動の友情物語 鳥居龍蔵と井下清」

本文は、武蔵野会と深く関連しているため、ここにて拡大し、リピートした:

多磨霊園の鳥居龍雄(タツオ・龍蔵の長男)像     

龍雄像は静かに前方を見て語らないが、ここにひとつ友情の感動物語があった。
この話を聞いて、涙があふれた:

東京都公園課の井下清と鳥居龍蔵は大の親友。
時は鳥居龍蔵の長男鳥居龍雄がパリ留学中だった。

井下さんは東京の公園をフランスみたいにきれいなものにしたいという大きな夢を持ち、フランスへの視察を決めた。その際、龍蔵を訪ね、その視察への協力を頼んだ。龍蔵は快く承諾し、息子の龍雄に連絡を入れた。

パリに着いた井下さんを、フランス語堪能な龍雄は最初から付きっきりで面倒を見た。訪問先々の通訳も全部した。

その心を尽くした手助けで、井下さんのフランス視察は大成功だった。それらを、井下さんが東京の公園整備にずっとフルに生かし続けた。

不幸なことは、その後起きたのだ:
過労のためか?若い龍雄が重いカゼになった。フランスの医者に通った。しかし、その治療法(冷たい水に浸かるなど、東洋人にはむり?)に合わないせいか、病状がさらに深刻化、悲しくもこの世を去ってしまった(確か、21歳だった?)。

龍雄は大学でトップの成績、教授に高く評価され、卒業後残って助手?になることだった。龍蔵最愛の息子で、期待の星だった。頭脳優秀と同時に、こころのやさしい青年だった(兄弟のため、可愛い手作り列車を作ったり)。外見も背が高く、ハンサム(イケメン)。

この余りにもショッキングの結果を、龍蔵は井下さんのフランス視察と関連つけることは一度もなかった。井下さんを責めたりなど、何一つなかった。自分自身のこととして、静かに受け止め、底知れない深い悲しみを胸の奥にしまったのだ。その時の龍蔵の様子を、きみ子夫人がこう言っていたそうだ:「龍蔵は一人で椅子<多分、今記念館に展示される背もたれ椅子のこと?>に座り、なにも語らず、悲しそうに物思いに深けこんでいた。その様子が痛々しく、きみ子夫人が気の毒で声もかけられなかった」。しかし、龍蔵は家族にも、感情をあらわにしたことは一度もなかった。そして、同年!龍蔵は決まっていた日程とおり、無事戻る確証もなにもない海外調査に出かけて行った・・・時は1927年・・・
(思うに、その時の龍蔵のハートは、涙に浸かり、泣きわめいていたはず?そんなハートを胸に、龍蔵は自らの「使命」である海外フイールド・ワークの旅路に・・・普通とてもできないことだ・・・多分、龍雄の分も働かなくては、の心意気?)

なにがあろうと、龍は飛び続けた!

このように、井下さんと龍蔵二人の友情は、なにごともなかったかのように、ずっと続いたのだ。

更に、龍蔵は、結果的に最終作になってしまった『ある老学徒の手記』の中で、自分の学問に家族を巻き込み、そのため、龍雄をパリでなくした、と明記し、あくまでも、自分のために、龍雄を犠牲にしてしまった、と。これを深読みすると、最後の最後まで、龍雄がなくなったのは全て自分の責任であることを強く結論づけたのだ。多分、親友の井下さんを、その自己攻めの苦痛から解放する一心からの文面でもあるのでは?超人的洞察力の龍蔵は、井下さんのこころを痛いほど理解していたのでは?

しかし、井下さんは自分が龍雄に過労させたのでは、と思い、深い罪意識に苦しんだ。

(思うに、その冷やし治療法が致命的だ。東洋人でそんな治療に持ちこたえられる者は何人?)

井下さんは、自分のフランス視察成功は龍雄の命がけの手助けがあったからこそ、と終生感謝した。

井下さんはこの感謝の気持ち、龍蔵への申し訳ない思い、心の深い苦しみを鳥居龍雄の胸像に託し、多磨霊園開設と同時に設けたのだ。龍蔵没後、龍蔵の記念碑も龍雄像の隣にたてたのだった(多磨霊園は井下さんが初めての公園霊園として開設したもの)。多磨霊園そのものが、井下さんのこころでは?

この龍雄(タツオ)像は、龍蔵と井下、2人の親友のなにごとにも崩されることのない真摯な友情の物語なのだ。

どんなことがあっても、友人を大事にし、決して裏切らない龍蔵の姿は、実に偉大だ。

あふれた涙はこぼれる:
鳥居龍蔵は偉大なフェミニストだ、と僕は言いたい。
大商人の子である龍蔵、そのこころは実に立派な「さむらい」(いい意味での)だ:
偉大なる強さと偉大なるやさしさの両方を持ち合わせているのだ。
これは、世界で偉人と称される者の共通点だ。
だからこそ、鳥居龍蔵はここまで偉大なる実績を建てられたのだ。

このように
龍蔵が偉大な世界的学者である理由の一つは、そのハートが世界に通じるからでしょう。
鳥居龍蔵が鳥居龍蔵たる主原因のひとつだ。

ここまで突き止めたのは、素人の僕としての大きな突破だと、信じる。

龍蔵一家に詳しい方々の情報提供に深く感謝!
本当にありがとうございます!
引き続き、どうぞよろしくお願い致します!
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以上のリピ-ト掲載を
どうぞご参考くださいませ。

よろしくお願い致します。



※ 文中にあった 龍蔵著書 について
  ① 『ある老学徒の手記』
  ② 『上代の東京と其周囲』

  両書とも、きれいな復刻版あり、
  特に②は、多くの加工が施され、
  文字が大きく、余白も広い。読みながらメモを入れられる。
  表紙も明るく美しい(ラメ加工で光沢あって汚れにくい)。

  ③ 『満蒙を再び探る』の復刻版もある。
  
  3冊とも、「徳島県立鳥居龍蔵記念博物館」内にあります。
 
  本についての詳細は、別篇ご紹介いたします。



米国の「海外領」 と 鳥居龍蔵
龍蔵経歴の真実


「海外領」という日本では
なじみのない「ことば」
しかし、世界の歴史を知ることにより
初めて、歴史に生きた人物を正しく捕らえられる。

25歳の台湾調査を皮切りに
鳥居龍蔵は世界の舞台にデビューした、
それだけでなく、
龍蔵の千島アイヌ調査の偉大なる実績も
世界に認められ、諸先輩を抜き
フランスから賞をもらった。

その長年にわたる海外調査が
世界に高く評価され、
後年、アメリカ ハーバドの研究所に
スカウトされる結果になった。

世界大戦・日中戦争・太平洋戦争の時代
当時日本の軍国化などの情況のさなか
龍蔵の経歴につき
日本国内ではつかめなくなった。

この時期に焦点を当て、
本篇をつづりたい:

米国「海外領」と一人の日本人学者

ニュースに出てきた「スペインの海外領土セウタ」の話だが
戦乱の時代、日本人で、
世界の人類学者鳥居龍蔵が、
アメリカのハーバード・エンキン(燕京)研究所
のスカウトに応じ、
中国北京にあるアメリカ領の「燕京学園」内に赴任。

すなわち、同学園内に研究所と大学の2つの組織があった。

鳥居龍蔵は研究所の、教授格の研究者であり、
自らの研究テーマで調査含む仕事を進めた。
大学の講義教授など勤めたことはない。

発表などに際し、
アメリカのマスコミも列席のうえ、
英語により行い、
米国のアナウサーと共に
全米と世界向きに放送された。

こういう処遇を受けたのは
鳥居龍蔵ただひとり。

米国側は本物を見抜く目が鋭く
龍蔵を最高に評価し大事にしたといえよう。

戦況がどんどん怪しくなる当時でも
日本人の龍蔵を招き厚遇した。

米国の深~い ふところに感銘、
龍蔵は更なる学問的情熱を燃やし
数回にわたり調査の旅に出かけた。

もちろん、上記経緯事実など
軍国にいそしむ当時の日本国内に
伝わるわけがない:
一般的ニュースすら封鎖された時代だから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「燕京大学」の歴史:
元の同名大学は純中国の大学。

米国が清王朝から大変美しい庭園を購入した。

米国領になったこの地に、
米国が新たな大学を作り、
米国ハーバードの姉妹校にし、
正式には「ハーバード燕京大学」と称し、
アメリカの総合大学として出発。

トップレベルの学生が集まり
トップレベル大学の地位を固めた。
同名の中国の大学とは全く別のもの。

龍蔵赴任のずっと前のことだ。

「燕京」を名前にした理由は単純:
「北京」の旧名に「燕京」「北平」などあるが、
歴史感、美しさから
アメリカ人は「燕京」を好んだからだ。

この大きな学園に
「ハーバード燕京研究所」も運営された。
ちなみに、研究所の本部はずっとNY、ハーバードにある。

鳥居龍蔵の北京赴任は、
アメリカ と 鳥居龍蔵 間のことであり、
中国側とは全く無関係だった。

アメリカの海外領存在という
歴史的「事実」があったからこそだった。

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鳥居龍蔵の個人史につき、
この部分は
日本では、ほぼ全部誤報である:
「中国の大学〇〇」に誘われ、
「そこの教授」など・・・の誤報ばかり。
       
これらは、まったく歴史を知らない誤報である:
当時の中国は、日中戦争の真っ最中、
このアメリカ領以外は、
全て日本軍の占領下にあり、

中国系の大学は
財源含む全ての面において
運営してゆけない情況にあり
勉学ですらむりな環境だ
とても海外から教授を招くどころではないのだ。

こういうことは
考えてみても分かるはずと思うが・・・?

日中戦争の最中、
中国の大学が日本人教授を招く
というありえない
非常識な「でたらめ」を

日本国内で
平気でばら撒けたほうが
よほど不思議なことだ!

「非常識な話」と
すぐ見破られるはずの「でたらめ」だ!



これまで、龍蔵経歴のこの部分についての
日本国内さまざまな誤報は、
歴史を知らないし、常識もない、
想像力すらないことから由来。

それに、日本国内では知られていないから、
何を言っても、どうせ誰も知らない、という
「無責任」ごまかし もあったであろうか?

これらにより
「中国の大学に龍蔵が勤めた」という誤報を
さも「定説」かのようにふりまわされてきた。

結論で、事実は
鳥居龍蔵は、生涯、一度たりとて
「中国の大学」につとめた ためしがない。

鳥居龍蔵が勤めたのは
米国の 中国領にある アメリカの研究所である。
所属はこの研究所で、
「教授」名称の研究者である。(講義教授ではあるまい)


前記「スペイン海外領土」と関連し、歴史上諸列強が海外領土所有
が「普通」であった歴史を参考に、戦乱時代を駆け抜けていった、
ひとりの冒険家的日本人学者の生き様・経歴を正確に捉えましょう。

鳥居龍蔵 組織上
全くアメリカ とのみ関係あり。

しかし、この「アメリカ海外領土」は
あくまでも、中国大陸にあり、
中国領内にあった、

だから、学園の中国人学生たちも
龍蔵の家に来て、
一緒に楽しい時間を過ごし、
学問のみならず、
人間鳥居龍蔵に深く魅了された。

日中戦争・太平洋戦争・・・などにかかわらず
彼らは「鳥居先生」「鳥居先生」と言い、
絶えず訪ねてきたのだ・・・

そこには、時代を越えた
深~い 人間の交流があった・・・