鳥居龍蔵
中国の大学で
働いたことは一度もありません。
1939年
大きな引越し荷物で
中国大陸に「転勤」した。
その時点から
龍蔵は「日本の学者リスト」から
消えうせた・・・
軍国が日々厳しくなる日本
龍蔵のことを構うような余裕は
皆にはもはやなかった:
戦争の足音は大きく響いてきた、
ここまでは、
あの『ある老学徒の手記』(『前篇』)
『 ある老学徒の手記 前編 』 鳥居龍蔵著書
(ここからも お求めになれます)
(その後につき、龍蔵が『後編』で
書こうとしたが・・・実現できなかった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1939年、鳥居龍蔵は意気揚々、
自由な学問研究の夢を胸に、
家具から他家財道具全般を共に
きみ子夫人など家族で船に
米国流「海外赴任」をした、
「鳥居人類学研究所」から→
「ハーバード燕京研究所」への「転勤」でした。
欧米は全生活をそのまま、そっくり
海外に移転するのが「海外赴任」
日本の「単身赴任」等からすると
もう日本に戻らないかのように見え、
さまざまな憶測を招いたようだ!
龍蔵にしては、単なる「転勤」
東京麻布の自宅も書庫もそのまま、
海外で一仕事して
戻ってから又続ける、
という「人生設計」だった。
海外転勤の赴任先は
「ハーバード燕京研究所」
アメリカ ハーバード大学の
アジア研究最高機関
「ハーバード燕京研究所」
その赴任先 所在は
アメリカ海外領土である
中国北京にある「燕京学園」内。
この部分の地域は
アメリカの領土である、
時は日中戦争最中だが
日本軍はこの地域には入れなかった。
植民地時代の歴史的真実でした。
龍蔵の仕事は、
それまでの研究の続きで
スケジュールは全て龍蔵まかせ
「サラリーマン授業教授」ではなく
全く龍蔵自身の研究テーマによる
研究・調査・・・など全て自由
だから、龍蔵はのびのび、
地方への出張調査も行い、
自らの研究を進めた、
これは米国流
世界的研究者への処遇でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本では、
軍国が進む中
龍蔵が 「中国に行った」
戦後の混乱の中
龍蔵が 「中国から帰った」
という断片的な情報しか伝わらず
結果「龍蔵が中国の大学で働いた」
という 「でたらめ」になった。
皆が自分の生活で手一杯の時代、
龍蔵の経歴など、構っている暇なし、
で、その「でたらめ」が最近まで「定説」だった!
びっくり だ!
事実は、鳥居龍蔵は
中国に転勤赴任したが
中国の大学に勤めたことは
一度もありません! でした!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『ある老学徒の手記』(『前編』)にはない
1939年以降の鳥居龍蔵の歴史を
正確に把握しましょう!
その人、その学問を知るに
大事なことです!
『 ある老学徒の手記 前編 』 鳥居龍蔵著書
(ここからも ご購入できます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『手記』すら読まず、『後編』も知らず
本書を龍蔵の「絶筆」と思い込み
セールスのため、「すたれ爺」を表紙に
「絶筆」でも書いているかのように
「遺作大作」と騒ぐものは
大きな勘違いをしている
「売りたい」一心からの「駄作」だ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
龍蔵ご一家に詳しい方々
本当にありがとうございます!
中国の大学で
働いたことは一度もありません。
1939年
大きな引越し荷物で
中国大陸に「転勤」した。
その時点から
龍蔵は「日本の学者リスト」から
消えうせた・・・
軍国が日々厳しくなる日本
龍蔵のことを構うような余裕は
皆にはもはやなかった:
戦争の足音は大きく響いてきた、
ここまでは、
あの『ある老学徒の手記』(『前篇』)
『 ある老学徒の手記 前編 』 鳥居龍蔵著書
(ここからも お求めになれます)
(その後につき、龍蔵が『後編』で
書こうとしたが・・・実現できなかった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1939年、鳥居龍蔵は意気揚々、
自由な学問研究の夢を胸に、
家具から他家財道具全般を共に
きみ子夫人など家族で船に
米国流「海外赴任」をした、
「鳥居人類学研究所」から→
「ハーバード燕京研究所」への「転勤」でした。
欧米は全生活をそのまま、そっくり
海外に移転するのが「海外赴任」
日本の「単身赴任」等からすると
もう日本に戻らないかのように見え、
さまざまな憶測を招いたようだ!
龍蔵にしては、単なる「転勤」
東京麻布の自宅も書庫もそのまま、
海外で一仕事して
戻ってから又続ける、
という「人生設計」だった。
海外転勤の赴任先は
「ハーバード燕京研究所」
アメリカ ハーバード大学の
アジア研究最高機関
「ハーバード燕京研究所」
その赴任先 所在は
アメリカ海外領土である
中国北京にある「燕京学園」内。
この部分の地域は
アメリカの領土である、
時は日中戦争最中だが
日本軍はこの地域には入れなかった。
植民地時代の歴史的真実でした。
龍蔵の仕事は、
それまでの研究の続きで
スケジュールは全て龍蔵まかせ
「サラリーマン授業教授」ではなく
全く龍蔵自身の研究テーマによる
研究・調査・・・など全て自由
だから、龍蔵はのびのび、
地方への出張調査も行い、
自らの研究を進めた、
これは米国流
世界的研究者への処遇でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本では、
軍国が進む中
龍蔵が 「中国に行った」
戦後の混乱の中
龍蔵が 「中国から帰った」
という断片的な情報しか伝わらず
結果「龍蔵が中国の大学で働いた」
という 「でたらめ」になった。
皆が自分の生活で手一杯の時代、
龍蔵の経歴など、構っている暇なし、
で、その「でたらめ」が最近まで「定説」だった!
びっくり だ!
事実は、鳥居龍蔵は
中国に転勤赴任したが
中国の大学に勤めたことは
一度もありません! でした!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『ある老学徒の手記』(『前編』)にはない
1939年以降の鳥居龍蔵の歴史を
正確に把握しましょう!
その人、その学問を知るに
大事なことです!
『 ある老学徒の手記 前編 』 鳥居龍蔵著書
(ここからも ご購入できます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『手記』すら読まず、『後編』も知らず
本書を龍蔵の「絶筆」と思い込み
セールスのため、「すたれ爺」を表紙に
「絶筆」でも書いているかのように
「遺作大作」と騒ぐものは
大きな勘違いをしている
「売りたい」一心からの「駄作」だ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
龍蔵ご一家に詳しい方々
本当にありがとうございます!


