サッカー構造学。 | トーキングドッグ

サッカー構造学。

東京五輪でスペインに負けて、確か1-0とスコアは僅差だったが完敗に見え、試合後の田中碧のコメントもスペインとの大きな差を感じさせるもので、その差は具体的には何なんだろうと興味がわいた、時に書こうと思いつつ笑だいぶ経ってしまったが、普遍性のあるテーマなので、今からちょっとずつ。欧州サッカーと日本サッカーの違いを考察すると、広く民族性の違いなども垣間見れて面白い、はず。




サッカーはルールがシンプルであるが故に自由度が高く、本当の意味で頭を使う。日本のスポーツの代表格である野球と比べるとよくわかる。野球はルールが多岐に渡り、複雑なので自由度が低い。一見ルールが複雑な方が頭を使うように思えるが、実際は逆である。ルールが複雑→自由度が低い、やれることが限られている→言語化、マニュアル化が容易である。


例えば、打者は打ったら一塁に走るよりなく、一塁走者は二塁に走るしかない。そこに考える余地はない。だから、一塁走者はライト前にヒットが出たら、三塁進出を考えて二塁ベースを回る、等シンプルにセオリーを作れるし、守る側も、一塁に走者がいて右中間に長打がでたら、カットマンの二塁手は外野手とホームの間に入る、等動きをマニュアル化できる。野村克也氏がスワローズの監督に就任して行ったのがマニュアル化の徹底で、「カウント別の投手の攻め方」等、膨大で大変そうではあるが、ある程度は「暗記科目」にできる。


サッカーはそれが難しい。例えば、サイドバックの前のウイングにボールが入った場合、サイドバックはオーバーラップ、インナーラップ、その場に留まる、等ある程度選択肢は限られるが、味方の状況、相手の状況、試合展開等、判断のための情報は膨大で、しかも味方も相手もそれぞれ意思を持って動き続け、状況は刻一刻と変わる。自律型ロボットに野球とサッカーをやらせた場合、どちらが先にものになるかは明らかだろう。サッカーにより主体性が必要なのも、日本人がどちらに向いているかも、自明のことかと。


それでも何とか言語化、マニュアル化しようとする努力の中で、言語化し難い共通認識の強度の違い、が強豪国と日本の差なのではないか、と気づき始めたのが日本サッカーの現状、という推測が考察の糸口である。