日本のシンドラー 杉原千畝 | 2.26事件を語ろう

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226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

 日本のシンドラーと呼ばれる杉原千畝(すぎはら ちうね)の生涯が映画になるそうです。
 ぜひ見たいと心がはずんでしまう反面、時代考証がめちゃくちゃのメロドラマに仕立てられているのでは・・・という少し不安になってしまったり、ともかく楽しみです。。

 私が杉原千畝という珍しい名前を目にしたのは、随分と昔、外交官の来栖三郎が遺した遺品を見せていただいたときです。
 前にも書きましたが、横浜出身の来栖はアメリカ人女性のアリス夫人と結婚し、シカゴ総総領事のとき長男長女に恵まれました。日本に帰ってからも家庭では英語が中心だったので、遺品の手紙もほとんどが英文でした。その来栖がとても杉原の外交手腕をかっていたのです。
 
 杉原夫人は戦後まもない1947年6月13日、岡崎勝男外務次官から退職通告書が送付され、6月7日に外務省を依願退職したと証言しています。口頭でそういうことがあったらしいのですが、外務省の文書としては残されていません。

 NHKは「ユダヤ人に無断でビザを発行した件が問題になって追放された」というナレーションを入れていましたが、これは少しだけ事実と異なっていると思います。
 
 余談になりますが、この来栖三郎の孫婿が星野仙一です。
 一方、岡崎勝男は陸上でパリ五輪に出場経験があり、スポーツ万能でした。孫の伊奈恭子はフィギュアスケートのペアで、米国代表として長野五輪にも出場します。
 というのも、彼女の父親、伊奈恒雄は帝国ホテルの陶器や便器を請け負った伊奈製陶所(現イナックス)の創業者の血筋で、スケート愛好家でもありました。宮内庁病院で生まれた恭子は生後4か月のときアメリカに引っ越し、恭子は3歳のときはロックフェラーセンターのスケート場ではじめて滑ったのです。

 それはさておき、戦前まで高等文官試験の外務科で合格する必要がありました。
 この高等文官試験というのは今でいう司法試験に近く、司法科、行政科、外務科があり、合格すると銀時計が賜り、「銀時計組」として高級官僚に登用される画期的な試みでした。

 帝国大学出身者が主でしたが、三郎のような一ツ橋大出身や松岡洋祐のようにオレゴン大学出身もいました。口頭試問もあります。受験者は涼しい信州にこもって合宿で勉強し、10月の試験の臨む者が多く、広田弘毅にしても吉田茂にしても東郷茂徳にしてもこれに受かり、巡査や教員の年俸が140円だった時代、初年度から年収1300円が約束され、高等官僚への道が開かます。

 ゾルゲ事件の尾崎秀実も帝大時代は「高級官僚をめざす」と公言し、信州で友人たちと合宿してから「文官高等試験」に臨んだものでした。

 ところが、この信州で尾崎は元人妻の恋人を結果として親友に奪われる形となり、失意が大きくて勉強が手につかなくなってしまい、合格できなかったのです。この年は朝日新聞の入社試験にも落ちてしまい、後藤新平の出資で大学院に進むことになりました。翌年になって朝日新聞は受かったので、高等文官試験はあきらめて新聞記者になる道を選んだのです。

 杉原千畝に話を戻します。
 もともと小学校のときから学術が優秀でした。
 父親の希望どおり医者になることを拒み、早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学。猛勉強します。


 親からの仕送りがなく、千畝は早朝の牛乳配達などで学費を作り、地方紙で外務省留学生試験を知ります。試験内容は法学・経済・国際法と2つの外国語という、学生にはかなりハードルが高い条件だったにもかかわらず、千畝は図書館にこもって英字新聞を片っ端から閲覧し、猛勉強の末、合格を果たすのです。

 1919年から外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びます。 
 1920年から22年まで1年志願兵となり、最終階級は陸軍少尉。
 1923年3月、日露協会学校特修科修了。特にロシア語が優秀で生徒から教員に転じることになります。
 1924年、外務省書記生として採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年に満洲国外交部事務官に転じました。この年、ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚し、生教徒として洗礼も受けています。
 1932年3月に満洲国の建国が宣言されると、千畝は満洲国政府の外交部に出向。ここでソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当し、外交的勝利をおさめます。外務省人事課に残る文書には、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」という記述が残っています。
 1935年には満洲国外交部を退官し、離婚も経験しました。

 226事件をはさんで軍部の暴走に拍車がかかります。
 初期の段階ではリットン調査団にフランス語で反駁文を起草するなど、満州国に協力的だった千畝でしたが、しだいに関東軍に反発を感じるようになっていきます。こういう思想をもつこと自体、当時は命に係わる、とても危険なことでした。

 千畝は関東軍の大物、橋本欣五郎から破格の報酬で、間諜(スパイ)になるよう強要されると、これを拒否。もはや満州にはいられず、妻はロシア人のスパイだという噂を流され、外交部を辞任。

 貯えはすべて前妻に渡し、無一文で帰国した千畝は、知人の妹の菊池雪子と結婚し、日本の外務省に復帰します。

 1937年にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任。

 1938年(昭和13年)3月4日、フランス大使の杉村陽太郎は千畝の有能さをかい、広田外相に「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」と直訴した記録が残されています。杉村のことは前にも書いたように、吉田茂、来栖三郎、重光葵らと共に、親英米派で非戦論派でした。オリンピック招致にも貢献する熱血漢でしたが、残念ながら胃がんで早世してしまいます。

http://ameblo.jp/talk226/entry-12068952311.html

 もっともすでに千畝はロシア周辺の防諜活動には欠かせない人材でしたから、広田外相は杉村大使の要請を受け入れることはできませんでした。千畝はこの広田弘毅をとても尊敬していて、息子にも彼にちなんだ名前をつけています。
 
 やがて、1939年8月28日、リトアニアの在カウナス日本領事館代理となります。
直後の9月1日にナチスドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦がスタート。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、ソ連はポーランドを侵攻します。

 この時点ではソ連はドイツの側についていました。
 複雑な国際情勢の中、千畝はカウナスに日本領事館を開設。緊迫したロシアとドイツの情勢をみきわめて報告するという、重要なポジションにつきます。
 そういう忙しい最中、あの「命のビザ」の問題が起きたのです。
 忘れもしない1940年7月18日の早朝の事でした。
 ドイツ占領下のポーランドから大勢のユダヤ系難民が逃亡してきて、リトアニアの日本領事館に通過ビザを求めて、早朝から人だかりができたのです。
 さっそく杉原は特別処置をとるため外務省に電報を打ちます。が、回電されてきたものには
「旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」
 という通例ばかり。杉原は独断で9月5日にリトアニアを去るまで、「命のビザ」を手書きで発行しつづけました。
 外務省は9月3日付けで、叱責しています。
「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」
 もっともこれが松岡外務大臣の命令なのか、秘書の加瀬俊一による判断なのか、定かではありません。

 もともと関東軍も満鉄時代の松岡も外務省も、それまで「河豚作戦」にのっとり、ドイツで迫害されたユダヤ人を満洲に移住させる計画を進めていました。なのに急転直下、日独伊三国同盟のニュースを聞いて、天と地がひっくりかえったようなショックを受けたのです。

 ちょうどこの時期、ドイツからスターマーが来日し、日独伊同盟を結ぶため松岡のテンションはあがっていました。昼間から強い酒を飲んで、料亭でスターマーを接待し、テレビカメラの撮影も許し、自分の地位と権力に酔いしれていたのです。
 そのスターマーの影には、ゾルゲという助言役が常に寄り添っていたので、情報はソ連のスターリンに筒抜けでした。
 そのため「命のビザ」どころではなく、三国同盟に反対する盟友、来栖三郎ドイツ大使が問い合わせしても、松岡はまったく応答しようとはしなかった時期にあたるのです。

 リトアニア領事官を閉めた後、杉原はヨーロッパ諸国を点々とします。
 1941年3月6日、杉原はケーニヒスベルク領事代理として着任。というのも、来栖三郎も彼の行動力を高くかっていて、次のような文書をドイツから外務省に送っています。
「新たにケーニヒスベルグに総領事館をつくりましょう。ソ連の情報収集は継続しなくては。杉原の培える防諜活動を中断するのは惜しいことです」
 このとき日本がいちばん知りたかったのは、ドイツがソ連を侵攻するかどうかでした。

 千畝は満洲国のビザ発行を条件に、とあるポーランドの将校に防諜活動をさせていたから、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)からは警戒されていいました。
 千畝は5月9日の電信で「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月にドイツがソ連を攻撃することを予測しています。「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連が穀物の大量備蓄をはじめて、長期戦に備えていることもあわせて報告しました。
 しかし、外務大臣の松岡洋祐はその情報を信じようとはせず、ナチスびいきの大島浩武官のヒトラー賛美を信じて、
「ドイツはソ連とは戦争しないよ」
 と一笑に付してしまいました。

 もともと松岡が外務大臣になったとき、「松岡外交」といって大勢のベテランを退職させ、開戦内閣と終戦内閣で外務大臣になった東郷茂徳ですら辞任を要求されたのです。
 ベテランを大量に解雇する一方で、松岡外相は西園寺公一のような元老の息子で、「文官高等試験」で不合格だったものや新聞記者を好んで「顧問」として採用しました。
 もっとも松岡お気に入りの「顧問たち」は松岡が失脚してしまうと、加瀬俊一をのぞくと、外務省に居場所はなくなりました。

 そこへ行くと千畝はコネや家柄ではなく、頭脳の優秀さと人間性で外交官としての仕事をやり遂げ、一目おかれる存在になっていたのです。
 ケーニヒスベルグの後、杉原はトルコ大使館に転出させられています。
 千畝自身「文官高等試験」のことが念頭にあり、何度も帰国願いを申請します。ところが、帰朝許可がでたのはミッドウェイ―海戦の半年後で、日本の敗戦が濃厚になってきていました。

 終戦後、GHQから「外務省はしばらくいらないはずだ」と解散論まで出て、結局3分の1がリストラされます。文官高等試験を合格していない千畝が解雇リストに入ったことは、不名誉とはいえないはずです。吉田も来栖もすでに外務省を去っていました。

「文官高等試験」をとおっていない、いわば臨時雇いのような不安定な地位にいた千畝が、強行に手紙のビザを発行しつづけた勇気と行動力と正義感に敬服せずにはいられません。
 
 もっとも「千畝はユダヤ人たちから金品をもらってやったんだから、金には困らないだろう」という声には手記で反論しています。これは事実無根のひどい中傷だと思います。

 音楽をこよなく愛した杉原夫人は疎開していたのに、一枚のレコードとサイン入りの写真を自宅に忘れたため、ルーマニアの首都ブカレストに戻ろうとして、大戦末期の戦闘に巻き込まれたりします。
 終戦の直後、多くの大使たちはソ連軍に拘束され、日本の土地を踏むまで長く時間がかかったことを覚えば、杉原一家は幸運なほうです。
 外務省は辞職させられた後も、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局など仕事には困りませんでした。1965年からは国際交易モスクワ支店代表となり、再び海外生活を送ったのです。

 最近になって「おれが杉原千畝の名誉を回復させてやったんだ」と語る政治家が複数でてきました。そういう人たちは、千畝は戦後みじめで不幸な生活をしていたような印象を与えたがります。けれども、そんなことはなかったはずです。

 テレビや雑誌でとりあげられたら立派な人物だという決めつけるのではなく、本当に価値がある人物や行いは案外と知られていないものなのでしょう。

 千畝は信仰心も手伝って自ら信じる道を選び、手書きのビザを発行しつづけました。それは功名心や自己満足から来るものではなく、「困った人たちを助けなくては」という信念からくるものだったはずです。

 どんなに尊敬しても尊敬しきれない、それが杉原千畝という外交官だったのだと思います。

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