ある日系人と山下泰文将軍 | 2.26事件を語ろう

2.26事件を語ろう

226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

 カブスの球場の近くには「東京ローズ」で知られたアイバ戸栗さんの「戸栗雑貨店」があったので、どうなっているのかと回ってみたところ、もう別な店になっていました。

 日本食スーパーのヤオハン(現ミツワ)が進出するまでは、ここでしか日本の食器や雑誌が買えなかった時期があるのです。
 ここはカルフォルニアから引っ越してきた戸栗一家の家族経営で、アトホームな雰囲気の中、アイバさんはかなり高齢になってもレジの横にちょこんと座って、お客に対応したのを記憶しています。この写真の店で、belmont通りにありました。


 ただし取材やインタビューは一切お断り。地元「シカゴ・トリビューン」からの取材も断っているのに、なぜだかインタビュー記事が載ってしまい、困りはててしまったことがあり、アイバさんのマスコミ不信はかなりのものでした。 
 その理由はドウス昌代著「東京ローズ」を読めば、わかります。敗戦直後の日本に乗り込んできた米国人ジャーナリストたちのスクープ合戦に巻き込まれ、アイバさんは東条英機、武藤章らA級戦犯たちと同じ巣鴨プリズンに収容されてしまったのです。

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 このときは証拠不十分で開放されるのですが、反日感情が強かったカルフォルニア州で訴えられ、禁錮10年と罰金1万ドル、アメリカ市民権剥奪を言い渡されました。6年2ヶ月の服役後、恩赦で釈放され、フォード大統領のときアメリカ市民権も取り戻します。もともとアイバさんはカルフォルニア生まれで、たまたま日本を訪問しているときに戦争がはじまってしまい、母国アメリカに返れなくなってしまったのです。特高から何度も脅かされ、「ゼロ・アワー」という連合軍の兵士向けの謀略放送の仕事についていただけで、東京ローズと称される女子アナウンサーは複数いたのです。

 ちなみにベトナム戦争のときは、「ハノイ・ハンナ」、湾岸戦争のときは「バクダット・ベティ」というのがいたと新聞記事で読みました。歴史は繰り返すということなのでしょうか。

 アイバさんは晩年はごく親しい友人たちと芝居を見に行くのを楽しみとし、日系アメリカ人たちが集まるバーで談笑したり、平和な日々をおくっていたようです。90歳のとき脳卒中で亡くなりました。

 ヨシさんはアイバさんより6才年下でしたが、お兄さんとは交流があったようです。87歳までカブスで働きつづけ、生涯独身だったので、ミシガン湖に近い超高級マンションで一人暮らししています。ノビさん一家がハワイで老後は暮らしているので、野球がオフになると、遊びに行くこともありました。日本には大人になってから、プロゴルファーの友人に連れていってもらっただけ。日本語はほとんどできなかったし、2.26事件のことも知りませんでした。フィリピンの裁判で山下泰文将軍と会ったときは、「ものすごく風格のある人だったよ」と感嘆していました。

 2.26事件における山下の役どころは複雑かつ重要です。
 海軍と陸軍の仲が悪かったのは、山下に限ったことではなかったようですが、結局そこがすべての出発点だったような気もします。
 ノルマンディー上陸作戦をテーマにした「史上最大の作戦」という映画を見ても、海軍と陸軍が協力しなければ戦争に勝てるわけがありません。
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 元海軍だった岡田啓介首相のことを「岡田なんぞ、ぶったぎってしまえ!」という山下の発言はあまりにも軽率でした。人情家で部下想いではあったのでしょう。オーストリア、スイス、ハンガリーに駐在経験もあり、ベートーベンをこよなく愛する一面もあったようです。
 2.26事件を終結するために自決をすすめ、男泣きに泣いた場面もあり、軍事裁判になる前、宮様のことを話さなければ恩赦になる、と耳打ちしたという流言もあります。
 どれもこれも山下の保身と取るべきなのか、陸軍の崩壊を防ぐためだったのか、解釈が分かれるところです。私は後者のような気がしています。
 青年将校たちをだますつもりはなく、すべてが山下にとって計算違いだったのではないでしょうか。山下は磯部たちを乗せた車と一緒に2台の車で皇居を訪れ、磯部たちは追い返されたという記録が残っています。
 
 安藤輝三が血盟団事件のとき、牧野信顕を暗殺する予定だった東大生の四元義隆を将校寄宿舎の自室にかくまったのは、当時連隊長だった山下の指示でした。ちなみにこの四元義隆という方はとても長生きして、田中角栄や中曽根総理なんかにも関わっていきます。

 安藤は軍事裁判ではそのことに触れず、手を下した部下の名前もあげず、「若いものは許してほしい」と嘆願し、一切の罪は自分にあると証言しています。

 山下もマニアの裁判では、辻政信のような虐待行為もすべて責任を課せられ、絞首台への昇って行きます。享年60歳。1946.2.23日午前3時27分。ちょうど10年前、安藤たちが「決起趣意書」をもって山下邸に訪れた日と同じ2月23日のことでした。