幻の1940年五輪ロゴ | 2.26事件を語ろう

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226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。



いろいろな面で、初心に返れ、の一言です。
 
 戦前のオリンピックはスポーツだけではなく、芸術や建築部門もありました。だから、ロゴだって大切だったのです。
 当時は冬と夏、両方の五輪が同じ国、同じ年で開催されていました。

 東京がヘルシンキと競り合い、勝ったのはベルリン五輪が開催する前々日のことでした。

 喜びに沸いた日本ではなぜか巨人の沢村栄治が記者会見を開き、尾崎秀実なんかも出席したそうです。(それぐらいアマとプロの差とか、いろいろわかっていなかったんですね)

 2.26事件があった年で、外務大臣の広田弘毅が総理大臣になったばかり。「落日燃ゆ」には書かれていませんが、広田はオランダ大使のとき、オリンピックたるものを知り、君が代が流れたときは涙を流したそうです。選手をリラックスさせるため、宴会をひらき、一緒に佐渡おけさを踊ったとか。
 すでに国際連盟を脱退していた日本が世界から取り残されないように、外務省では広田弘毅も、来栖三郎も、東郷茂徳も必死で五輪招聘のために尽力したのです。

 ヘルシンキががんばったので、半年してから札幌五輪も決定しました。東郷茂徳の娘のいせも、札幌五輪を目標に稲田悦子と練習に励みました。出場選手枠がかなりあいまいでしたからね。