もちろん、起伏や沼地の有無で走るペースは変わるし、時間がかかるのはしょうがない。僕たちが「地図」と呼ぶコース説明があてにならないことも初日から分かっていたことだ。とはいえ、いくらなんでも長すぎる。水の管理もままならない。こまめに水分を補給していたため、残るは500㍉㍑のペットボトル1本だけ。心もとないが、熱中症を予防するため、口に含んだ水をゆっくり流し込んで喉を潤す。
てっぺんの見えない背の高い木や大きな葉のシダ植物が入れ替わり、どこまでも続く。同じような風景が延々と広がる。同じところをぐるぐると回っているような気がしてくる。変化は不意に訪れる。長い下り坂の途中で、ぐったりと座り込んでいる選手がいた。50代のブラジル人だった。話しかけると「医者をよんでくれないか。それに水を分けてほしい」とかすれた声を絞り出した。けがはなさそうだが、消耗していて具合が悪そうなのは一目見て明らかだ。熱中症かもしれない。容体を詳しく聞きたいが、お互い英語だとうまくコミュニケーションが取れない。じれったい。
チェックポイントまでの距離が分からず、水を渡すことを一瞬ためらう。が、疲れ切った彼の表情を見た後では、そんなことも言っていられない。ペットボトルを取り出すと、彼はひったくるように両手で抱えて逆さにする。勢いよく喉を鳴らし、一気に飲み干した。「少しだけでも残してくれ」と一声かける間もなかった。軽くなったボトルを手渡される。先のことを考えると不安は残るが、険しかった彼の表情が少し和らいだように見えた。それだけが救いだ。ひとまず安心なのだろうが、僕では判断がつかない。「医者を呼んでくるから、ここで待っていてほしい」。約束と言わんばかりにがっちりと手を握った。
別れ際に、腕時計に目を落とす。救助を呼ぶにしても正確な位置が分からないので、移動時間だけでも伝えるためだ。彼の状態は心配だが、僕にしても飲み水なしに長時間は走れない。1秒でも早く到着したい。「走れメロス」のように、約束を守るため愚直に走る。
突然、何かにつまずいて体が宙に浮いた。下り坂なのでスピードに乗ったまま頭から枯葉の上を滑っていく。氷上を腹で滑るペンギンのごとく。慣性の法則を体現していて、なかなか止まれない。メロスの物語だと、倒れこんだまま昼寝をしてしまうが、そんな時間はない。第一、寝そべっているとアリの襲撃をくらってしまう。ヘッドスライディングの体勢から慌てて起き上がる。落ち葉にまみれながらも何事もなかったように全力疾走を再開する。使命感に駆られているせいか、転んだ時に打ち付けた部分や足にできた水ぶくれも痛みはない。10分ほどでチェックポイントに到着。救助者がいることを伝え、その場に座り込んだ。
時刻は正午をすぎたばかりだった。地図によると、ここまでの道のりが約40㌔。メロスなら目的地である故郷の村に帰ったところだろうか。僕はまだ折り返しにも来ていない。小一時間ほど休み、昼食を済ませて息を整える。腹を満たして体力が戻ったような気はするが、万全には程遠い。それでも日没までに危険なエリアを終えられるよう少しでも先を急ぎたい。出発に向けてストレッチをしていると、助けを求めていたはずのブラジル人選手がやって来た。アルゼンチン選手2人に付き添われていた。
救助されたのかと思っていたが、彼はスタッフに怒っている。「医者は来なかった」と文句を言っている。僕にも不満を言いたそうだったが、僕が救助を呼んだことは別のスタッフが証言してくれた。「それでも来なかった」と彼の腹の虫は一向におさまらない。チェックポイントに居合わせたマルさんから聞いたところ、彼は低血糖で動けなくなったらしく、後続のアルゼンチン選手からも水を分けてもらい、何とかチェックポイントにたどり着いた。
大事に至らなかったのは幸いだが、さすがに呆れてしまった。スタッフ間で連絡ミスがあったのかもしれないし、後続の選手が来ているから救助に向かわなかったのかもしれない。広大なジャングルで大会運営が大ざっぱになるのはやむを得ない部分もあるが、選手のコンディションに関しては細心の注意を払うべきだ。最悪の事態に発展していた可能性もあるのだから。過去の大会で死者を出さずに済んでいたのは、運営がしっかりしているのではなく、選手同士の助け合いと努力によるところが大きいのだろうと思い知らされた。完走率が3割程度の年もあるという大会で、走り切るための最大の障害はジャングルでなく、大味な運営なのかもしれない
別のチェックポイントでは、スタッフに次の給水地点までの距離を聞くと、「こっちが教えてほしいよ」と肩をすくめられた。コースがショートカットされたから分からないというのだ。スタッフ間ですら情報が共有されていない。全容を知るのはシャーリーだけ。選手だけではなく、スタッフも振り回されていた。メロスは帰り道に氾濫する川に立ち往生し、走ることを諦めかけて眠り込んだ。僕たちは毎日アクシデントに見舞われながらも立ち往生することなく進み続けるだけだ。