いつでも誰もが正しい判断を下しているのなら、社会はこんなふうにはなっていないはずで、そんなことは絶対にない。
当然、僕自身も正しい判断がいつも出来ている訳でなく、たまにどころかミスジャッジも頻繁にしてしまう。
時には判断しないと言う判断をしてしまい、それによって全てが後手後手に回ってしまうこともある。
ただ、判断しようとする時は、精度が高くなくても少しでもいい判断をしようとする。
しかし、判断の精度を高めようとしてあらゆる情報を集めて検討しようとするあまり、ついつい判断を後ろに延ばしがちになってしまう。
判断の精度は、情報の量だけで決まる訳でもない。
判断した数によって精度も違ってくるんじゃないか。
判断の成否が完全な五分五分だと、何度判断しても、いつも五分五分のままだ。
判断の精度が50%を切ると、判断するたびに精度は下がる。
でも、0.1%でも精度が高ければ、判断するたびに精度は高まっていく。
少しでもより良い判断をしようとすれば、おそらく少しだけであっても判断の精度は高いはずだろう。
そうなると、たとえ全ての情報が揃わない段階であっても、小さい段階での判断を何度も繰り返した方が、大きな判断を下す場面でのミスジャッジの可能性は低くなるんじゃないか。
そして、何度も判断を下していくうちに、学習効果も現れていくるから、それによる精度の高まりも期待できる。
判断自体は、実は僕が今こうしてブログを書いている瞬間であっても行っている。
次に何の文字を打つのかも判断だし、途中でやめて食べ物を取りに行ったり、コーヒーを淹れようとする選択肢だってある。
生きている限りは判断の連続だけれど、そのことをどれだけ意識しているだろうかと思ったりする。
判断していることを意識していないと、精度を高めようとも思わないし、判断した後の学習効果もない。
判断しないと言う判断を下したことに気が付かなければ、判断を先延ばしにしたことによる振り返りも出来ない。
自分が判断していると言うことに対して、もう少し意識を向けた方がいいのかもしれない。
きっと、判断に対する意識を少し向けるだけで判断の精度は高まるんじゃないか。
そんな気がするのです。