僕らは一つのところに繋がっていて、言ってみればすべては一つなんだと。
2つ前の記事で、すべては同じなんじゃないか、ということを書いた。
すべてが一つに繋がっているから、元を辿れば「すべては同じ」ということになる。
だから、それぞれが違っていたとしても、すべては一つに繋がっている自分と同じなんだ、とも言えるかもしれない。
だけれど、元が一つで、すべてが同じところから生まれ出てきたものだとしても、やはりナイフとフォークが違うように、僕とあなたも違うし、あの人とこの人も違う。
クローン技術が発達したとしても、僕とそっくりな人は僕ではなく、やはり違う。
何かのペーパーをコピー機でコピーしようが、データをそのままコピーしようが、オリジナルとコピーはやはり違う。
オリジナルがいいとか、コピーががダメだとか言うのではなく、とにかく違う。
この世に存在した時点で、何とも同じではない。
違うからこそ、僕らはそれぞれ個別にここに存在している。
存在の違いというのは「在り方」の違いとも言えるかもしれない。
ナイフとフォークの在り方も違う。
誰かと同じようになりたいと思っても、その人と僕は違っていて、その「在り方」も違う。
憧れを抱くあの人も、元を辿れば僕らと同じ一つのところから出てきており、そういう意味では僕ら自身とも言える。
その一方で、個別に存在しているという意味では、「在り方」は全く違うとも言える。
誰かをロールモデルとしたり、生き方を参考にしたり、やり方を真似てみる、ということはある。
それはそれでとても有効なことであり、僕らが皆、元は同じところから出てきている、ということは、自分にもきっとその要素がある。
「学ぶ」は「真似る」から来ていると言われるぐらいなのだから。
でも、僕らはそれぞれ違う存在のだから、その人自身になろうとしても、なれるものでもない。
あくまでも、その人の「ように」なりたいに過ぎない。
僕らは、一つであり、すべて同じであるけれど、それぞれが違う。
何だか禅問答のようだが、禅問答自体が元々はそういうことを言っているのだと思う。
すべて同じで、すべて違う、と。
あとは、そこでの違いに、何かのモノサシを用いた評価をしない、ということなんじゃないか。
勝ち負け、優劣、損得、と言った評価をしないことなんだと。
評価をすることは「違い」をはっきりさせることでもあるが、それは違いを意識させているようでいて、結果として「同じになれ」という力が働いているような気がする。
負けたから今度は勝とう、損をしたから今度は得をしよう、というベクトルが働くし、また逆に、いつか負けるかもしれない、どこかで損をするかもしれない、というベクトルも働く。
それは、僕らが見ている「違い」の部分を、無理やりに無くそうとする力とも言える。
それは、実はとても不自然な力なのかもしれない。
僕らは、同じところにたどり着くけれど、どれ一つとして同じではない違う存在なんだと。
きっと、そうすることで、少しは「〜しなければ」という不自然な力からも解放されるんじゃないか。
そんな気がしているのです。
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