僕らの取り巻く社会は「効率化」とか「合理化」という名の下にどんどんスピードが早くなっている。
とにかく無駄をなくせと。
でも、実際には効率化するためにかえって時間が掛かってしまう、なんて本末転倒なことも起きる。
例えば、何かの企画とか申請とかを書類にして示す場面で、できるだけ分かりやすく、見た人がさっと判断できるように、図とか表も駆使してペーパーを仕上げる。
それで、それを仕上げるために時間と労力を費やす、なんてことはよくある。
効率的に行動しようとすると、あれとこれを一緒にやって、あっちのついでにこっちにも行っておこう、とする。
とにかく慌ただしい。
そしてヘトヘトになる。
効率的にスケジュールを組もうとする時、未確定なものが入っているとなんとなくイライラしたり、落ち着かなくなる。
未確定なものとは、予測不可能なもので、逆に確定していることは予測可能なものだ。
効率的にしようとすれば、どうしても予測可能なものを優先してしまう。
予測可能なものとは、計算が立つことでもある。
計算は論理の世界でもある。
だけれど、僕らは論理の世界だけで生きているわけではないし、また、論理だけであれば、それらは今後間違いなくAIに取って代わられる。
効率化や合理化という号令によって、資本主義も発展してきたけれど、それとてどうやら制度疲労を起こしていて、そのために僕らはとても息苦しくなってきている。
(資本主義が制度疲労を起こすこと自体は、19世紀末から20世紀にかけて、すでに予測されていたそうだ。)
感性とか直感とか言ったものは、効率化の世界、計算可能な世界と言ってもいいかもしれないが、そうした世界からすれば無駄かもしれない。
しかし、巷では感性の時代だ、直感を大事にしよう、と盛んに言われ始めている。
一方で何でもかんでも「時短」ということも言われている。
時短は効率化の際たるものだ
効率化を極めたのちに無駄なことをしろ、ということかもしれないが、そもそも無駄は、きっちり区分けされないから無駄なんじゃないか、と思ったりもする。
直感なんて、いつどこで降りてくるかなんて分からない。
直感が働くことが分かっていれば、それは予測可能なことだから、そもそも直感ではない。
僕らはもっと無駄なことをしたり、無駄なことを考えたり、してもいいんじゃないか。
かつては、「無駄な考え休みに至り」と言われていたそうだが、そうであるならば、「休む」ことこそが「無駄」に行き着く、とも言える。
だから、せいぜいお茶で飲みながら、休み休み行きましょう。
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