何かをするような気力が無い、ということもある。
何にも関心を示すことが無い、ということもある。
無いものは無いのだから、そこには無気力で無関心な状態がある、ということにもなる。
その状態を自分で認識している。
つまり、自分の中にある「なんか気力がないな」「どうも何にも関心が持てない」ということを自分で見ている。
こんな時に、何かで気を紛らわそうとすると、かえって自分が見えなくなってしまう。
気力が無かったり、何かに関心を示すことが無くなってきたら、きっとエネルギーのレベルが落ちているんだろう。
何かをしようとするにも、自分の感性の触覚を働かせて何かに関心を持つにもエネルギーが必要だ。
エネルギーが必要だから、といって必ずしも栄養素の高いものを食べたり、エナジードリンクを飲むということでもない。
まずは休むことなんだと。
ただ、なかなかボーッとすることもできないものだ。
無気力や無関心である自分を認識しているだけに、そのことで不安にもなってくる。
ボーッとしているようで、頭の中では「このままでいいんだろうか」と不安や焦りも湧き上がってくる。
不安や焦りで「どうしよう、どうしよう」という声が頭の中でリフレインされてくる。
僕らはすでに多くの情報に囲まれていて、スイッチ一つで飛び込んでくる。
何もしたくなくても、何にも関心が持てなくても、なんとなくネットサーフィンをしたり、なんとなくテレビを見ていたりする。
そこでまた、いろいろな情報に触れるたびに、不安や焦りはどんどん募っていく。
不安や焦りは、エンジンの空ぶかしのようなもので、エネルギーを消耗させる方向に働くから、ますます無気力で無関心にもなっていく。
実は、こうした一連の心の動きだったりを見ていくことが、自分を見つめるということなんだと。
そうして自分を見つめていった時に、それならどうしようか、ともなってくる。
なんとなくネットを見ようとして手にしたスマホをちょっと置いてみたりするかもしれない。
気力や関心が満ちてくるまで、ちょっと待ってみようか、となってくるかもしれない。
そして、そんな時の「待つ」ってどんな状態のことだろう、と思い始めるかもしれない。
こうして自分を見つめことで、何をしたらいいんだろうか、ということも見えてくるんじゃないか。
無気力であったり、無関心になっていることに気が付いたら、それだけで僕らはすでに自分を見つめる1歩を歩き始めているんだと、そう思うのです。
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