なんでも自由にやっていいよ、と言われると逆に何をしたらいいのか分からなくなってしまうものだ。
何かの枠なり制限なりガイドラインがあったほうがやりやすいし落ち着く。
落ち着くということは安心感を得るということでもある。
様々な制限があることで守られていて、その中でいる限りは安心安全だと。
「なんか落ち着くなあ」という感覚によって、僕らはどんどんと自分の周りに制限を設けていっているのかもしれない。
外から制限されれば、なんとなく窮屈になるし、そこから出たいと思うけれど、実は制限自体を拒んでいるわけではない。
その与えれ方に過ぎないんじゃないか。
外からの制限が全て嫌だというわけでもない。
自分で自分をどう制限すればいいか、この場合には制限ではなく自分を律するということになるのだろうが、少なくとも最初の頃はよく分からない。
だから、外からの制限をむしろ求めるかもしれない。
制限が強烈な命令口調で与えられれば反発もしたくなるが、ソフトに制限が少しずつ加わっていけば、それらの制限を僕らは受け入れる。
むしろ積極的にその制限の中に入って行くかもしれない。
そうやって僕らは自分でも気がつかないうちに制限でがんじがらめになっていく。
そしてソフトに与えられた制限が、ある日突然、「こうしろ!」と高圧的に押さえつけられた時、反発するけれど、その時にはすでに多くの制限が自分の周りに張り巡らせれていて、あがいても疲れるだけ、みたいな状態になっている。
自分を取り巻く制限に対して意識を向けてみたほうがよさそうだ。
その制限は外から与えられるものもあれば、自らに課しているものもあるだろう。
あるいは、普段は全く意識していないけれど、自分の思い込みによって制限がかかっているかもしれない。
自由にやりたい、という時も、実はこっちの制限は嫌だけど、あっちの制限ならいい、といったことだけかもしれない。
そして、制限を自分で選ぶ時、僕らはそこに自由を見出しているかもしれない。
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