夢の扱いについて | 生き心地の良いライフスタイルを目指して(K.TAKUYAのブログ)

生き心地の良いライフスタイルを目指して(K.TAKUYAのブログ)

自分の持つ感覚を磨き直し、自分に気づき、生き心地の良さとはなんだろうと探求し、気が付いたことを書き連ねています。

寝ている時に見る夢のメカニズムは実際のところよく分かっていない。

 

 

今の所は自分の潜在意識の現れとされている。

 

 

源氏物語では、夢は他の誰かの想念とか怨念とかが入り込んでいるものとして描かれている。

(六条御息所の話とか)

 

 

もしかしたら、これも光源氏の持つ潜在意識が為したことかもしれない。

 

 

僕らは夢に導かれることもあれば、反発することもある。

 

 

全くの荒唐無稽で、なんの脈絡もなく、いつの間にかシチュエーションや登場人物が変わったりもする。

 

 

それでも、何かのメッセージがあるのかもしれないと思うことがある。

 

 

特に、夢の内容をぼんやりした朝の時間で思い出すことができたりするとなおさらだ。

 

 

だけれど、そこの頭の中で言葉にしようとすると、時に変換ミスが生じてミスリードしてしまうこともある。

 

 

僕らが考える時、多くは言葉に頼る。

 

 

言葉にすることでイメージを明確にし、自分の行動なりを方向付けてくれたりもする。

 

 

言葉は第三者に伝えるだけでなく、自分自身にも伝えることができる。

 

 

だから言語化するということには大きな意味がある。

 

 

しかし、見た夢を言語化すると、そこに削ぎ落とされたものが出てくる。

 

 

きっといろんな意味なり情報が圧縮ファイルとして「夢」という形で届けられているのかもしれない。

 

 

そして、僕らの(少なくとも僕の)乏しいボキャブラリーでの言語化という解凍アプリでは、十分に解凍し切れないし、解凍できても膨大な情報量の前にただ立ち尽くすことしかできない。

 

 

夢を言語化する前に体が動いてしまうこともあるかもしれない。

 

 

夢で見た光景に、何かの時にふと出くわし、誘われるように体がそっちに引っ張られることもある。

 

 

そうした時、言葉は介在しない。

 

 

夢という圧縮ファイルの解凍アプリはどうやら言葉だけではないようだ。

 

 

眠っている時に見た夢をどう扱うのか。

 

 

扱いあぐねているのだけれど、でもきっと無視はできないのだろう。