われわれ日本人はよく
●「運」も「実力」のうち
という言い方をします。
たとえば、「成功」した人は、「実力」があるだけじゃなくて、何かしら「運」が良くて、「人との出会い」や「偶然のタイミング」を逃さずに、力を出し切ったから「成功」にこぎつけた、みたいな話がよくされます。
そういうときに、人は「いやー、運も実力のうちですよね~」などとお世辞みたいなことを言います。
最近思うのは、
×「運」も「実力」のうち なんじゃなくて
〇「実力」も「運」のうち なんじゃなかろうか
と思うのです。
「実力」があると思っていても、それって、結局、「運」が良かったから、その「実力」が身についたんじゃないの? ってことです。
たとえば、「五体満足」で「自由経済」の国に「自由競争」の時代に生まれついただけでも、「運」が良くて、その「運」があったからこそ、「実力」を身につけることができたんじゃないか。
たまたま「才能」があったからとしたら、それも本人の努力ってよりかは、「親の遺伝」だったりして、やっぱり「運」なんじゃないか。「教育」を受けることができたから、「良い教師とめぐりあえたから」というのも、一種の「運」だしね。貧しいアジアやアフリカの国々じゃ「教育」受けられなかったかもしれないんだから、結構「運」だし。「優れた教育の私立学校」に入ることができたとしたら、それも「運」。
「才能」があっても、それを「伸ばすきっかけ」に出会うかどうかも「運」次第。
「才能」があって「教育」を受けても、それが「うまく仕事につながるかどうか」も、入った会社や出会った人次第だったりして、やっぱり「運」。
そんなことを考えると、「運」が「実力」のうち、なんじゃなくて、「実力」は「運」の内なんだろうと思うのでした。
「天才」みたいな人がいたとしたら、たぶん、それは「ひらめき」が強く関係することも多いと思うんですが、「ひらめき」なんてのは、絶対「天啓」というか、なんらかの「偶然」的要素が関わっているものが多そうじゃないですか。やっぱり「実力」が「運」のうち。「運」の方が上位概念。その内側に「実力」がある。
震災直後にも書きましたが、われわれが「生きてる」だけでも「運」がいいってこと。
中学入試も大学入試も、受けられるだけで一定レベルの「運の良さ」がある。
家庭の都合で受験できないヤングケアラーの人もいれば、大地震・大津波で試験どころではない人だっているんだし。
「おれはがんばったから年収〇千万円なんだ」とかいばって言う人もいますけれども、「がんばれた」こと自体、結構「運が良かったから」という側面もあるはずなのです。
そもそも、「がんばりさえすれば年収〇千万円」という立場にたどり着いたことだけでもかなりの「強運」。
「才能」もあって「能力」もあるけれども、何かの都合で、そういう「職業」にめぐりあえなかった人だって世の中にはいるんだと思うのです。
「自分ががんばったからこその成果なんだから、それは自分の実力」というけれども、
「がんばることができた」という環境にあったのは、「運」が良かったからです。
世の中には、「がんばる」ことを「あきらめざるをえない」状況が次々に起こりうるものです。
「がんばりたくてもがんばれない」環境の変化がいつ起きてもおかしくなかった。
「がんばる」ことを「止める」「障害」は、いつでもドンドン起こるのが普通です。
それなのに「がんばる」ことを「継続」させることができたのは、すごくラッキーで「運」が良かった。
新年早々、こういう「辛気くさい」ことばかり書いてすみません。
最近そんなことばかり考えているので。
今日なんか、新宿ルミネで「吉本」のお笑いを観に行ってきたのですが、(例年恒例)なんとなくそんなことを考えるのでした。
だから「前世」がどーのこーのということは、わたしは理屈にも合わないと思っているのですが、とりあえず「運」が良くなるようなことは、やった方がよいかなーと思います。
また、今の日本で普通に生きていられるだけでも「運がいい」ってことは結構自覚して、いろいろ「感謝」しながら生きていった方がいいのかなーと思います。
2024年は大変な始まり方でしたが、
これからV字回復で、皆様にとってすばらしい一年となりますことをお祈りします。
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