最近うちの近所は「選挙カー」がうるさい。
近々、市議会選挙やら市長選挙やらがあるせいか。
●子供たちの明るい未来のために
●お年寄りにもやさしい街作りに
●活気あるみんなの〇〇市に
とか、そんな感じの「選挙スローガン」が車から聞こえてくる。
こういう、「抽象的」な「お題目」は、なーんも耳に残らない。
ただ右から入ってきたものを、左に受け流す。
チャラチャッチャッチャラッチャー。
「抽象的」だ。
「いいこと」言ってんのかもしれないけれども、あまりにも「具体性」に欠ける。
「子供達の明るい未来」を望まない人はいないに決まってるから、「どんな感じの明るい未来」かを聞かないととても賛同も反対もできない。
「明るい未来」とは、「米国の手先として、工業生産国に逆戻りし、全員が工場で毎日時間通りに汗を流しさえすれば、毎日ごはんを腹一杯食べて、子供達を全員公立高校を卒業させることができる」未来なのか? 「全員がIT技術者となってデジタルに生産性の高い産業立国を目指し、アジアや中東アフリカの人たちを移民に迎えて、家事や育児や地味な労働を全部おしつける」ような未来のことを言うてるのか?
「子供達の明るい未来を目指す」って言葉だけじゃ、あまりにも何いうてんのかわかんないのだ。
あなたの掲げる「子供達の明るい未来」ってどういう未来なの?
とにかく、「選挙カー」から聞こえてくるのは、そういうあまりにも「抽象的」で「どうとでもとれる」、「無難」で「誰もが賛成せざるをえないが、あとでいくらでも言い逃れができる」たんなる「お題目」になっている。
「学級会」で決める「今週のめやす」と同じ。
何の拘束力も、責任もない、ただ言うてるだけの、「無難すぎるスローガン」。
いいすか、国政を問うてるわけじゃない。
市政ですよ。近所の話。みんな知り合いレベルのうちの町内の延長線上の話。
こないだの「市長選挙」はしっかりとした「争点」があった。
古びた(しかしまだ十分使える)市役所を、大金をかけて立派なものにしようとする政策と、そんな無駄なことをするのは辞めようとする政策。
結果、後者の勝ち。そりゃそーやろ。
うちの市の「サッカー少年」たちは必ずずっと使ってきた「サッカー場」を何面も使える立派な公園があるんだけど、そこを売って市の財政を増やそうという政策と、いやちょっと待てよ、みんなたいていの男の子はあのサッカー場使いまくってきたし、今でも超使ってんだから、それをとりあげるようなことしないでよ、という政策。
市長選挙なり、市議選挙ってのは、まさにその「具体的な争点」をどうするかって話なんじゃないの?
「子供達の明るい未来」は、結局、サッカー場を売って市内の学校教育をもっと手厚くするかとか、多少貧乏してもサッカー場はやっぱり残すのかって、どっちの「未来」を選択するかっていう「争点」なんじゃねーの?
選挙カーから聞こえてくるのは、あまりにも抽象的だ。
もっと、具体的な政策を示せ。
俺は何度も言うてるのですが、某交差点に「右折信号」を付けると公約をしてくれる人に必ず投票する。嫌いな共●党の人だとしても、その約束を守ってくれるなら今回は投票する。
市議会選挙ってのはそんなもんでしょ。
うちの目の前の道路の「舗装」をもっとよくしますと、約束する人に投票する。
政治家のことを「かっこいいことを言う人」とか誤解してないすか?
「税金」で集めた「予算」の「再分配」方針を決めるのが議会なんとちゃうん?
有権者の意図の多寡でその「再分配」が決まるってだけ。
代議士は(少なくとも市議は)カッコいい耳障りのいい言葉とかいらんつーの。
「どこどこ交差点に右折交差点をつけます」とか、「長く続いている道路拡張工事はいつまでに必ず終わらせます」とか、「市の公立小学校・公立中学校には不登校の生徒をひとりも出さない教育を徹底させます」とか、「給食のおかわりを実質無制限にします」とか、大事なことはそういう具体性やろ、と思います。
「給食のおかわり」問題は、子供達が直面する初めての「民主的課題」だ。
「限られた資源」「公平とは何か」「平等とはどう違うのか」「ジャンケンだけが解決か」「先生の言うことならすべて正しいのか」どんな学級会より議論で白熱する教室。
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