阪神淡路大震災を思い出した | takuteiオフィシャルブログ「takuteiのほぼ麻雀」Powered by Ameba

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 3月11日の「東北地方太平洋沖地震」の時、僕は船橋の麻雀教室にいました。大概の地震には驚かないですが、さすがに今回の地震はビビりました。窓側に逃げ、いざとなれば4Fから飛び降りるつもりでした。阪神淡路大震災の経験から、「建物の崩落」が怖かったので…。

 ふと、思いました。一応、僕も震災の経験者ですから、当時がどうだったかということを記憶があるうちに残しておく方が良いか、と。

 1月17日の深夜、僕は神戸元町の雀荘「グッドラック」でメンバーのバイトをしていました。当時は大学の6年生であり、同時に101競技連盟に所属していました。僕自身は大学を中退する気でしたが、両親や親類の反対もあり、7年目の4月から大学に復学する予定でした。

 その日は風邪気味でした。元々、休みも少ないハードスケジュールだったので、体を休めるには絶好の機会かと思い、上司に早退を申し出ました。当時の僕は時給勤務なので、お店が暇になると「お客さん」で麻雀することが多く、バイトの早上がりは日常茶飯事です。1卓○稼動で、来店客の見込みが薄ければ仕事を終え、お客さんとして待機していることも多かったのです。

 ただ、その日はさすがに帰らせてもらおう、ゆっくり部屋で寝よう、と思い早退を申し出ました。上司の了解を得て、神戸元町から住吉山手の「神戸大学住吉寮(下写真)」まで車で戻りました。(当時は学生寮に入っていたこともあり、家賃・駐車場代はタダ同然だったので、車・バイクに乗ってました)。

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 で、寮に戻ったのが午前3時半ぐらい。普段はソッコーで寝られるのですが、普段と違い真っ暗の中で寝る(通常は朝日を浴びながら寝ます。夜番なんで)のに、この日はなかなか寝付けなかったです。頭痛薬を飲んで、ようやくウトウトと仕掛けた頃、瞼の先に雷のような光が「ピカっと」差すのを感じました。その直後、「ドーン」という音と共に、部屋中が揺れ始めました。

 「地震だ~」

 僕は中学生の時、鳥取県中部地震(名称あやふや)を体験し「本棚が枕元に倒れてくる」という恐怖を味わっています。そこで、この時は普段愛用している「麻雀用テーブル」という名前のコタツ板を掴み、その下に身を入れました。落下物から頭を守るためです。が、さすがに体感したことのない規模の揺れだったので、「この建物が潰れたら死ぬな」とは思いました。一応、コンクリートの建物ですが、特段新しいわけではありません。ちなみに外で出るのは早々に諦めています。起き上がることすらできない揺れでしたので。揺れている間、あちこちのガラスが割れる音や棚から物が落ちる音が聞こえました。

 揺れはじめから30秒ぐらいでようやく治まりました。とりあえず一安心。そして部屋の外へ出ます。同じように出てくる隣近所の後輩たち(あ、隣は同期だわ。大学院生だったから立場は違うけど…)。

 「うぉ~揺れたね」「ガラス割れまくりですよ」「ホント、とんだ災難ですわ」

 後にどんな大惨事だったか、この時は知りません。だが、同時に

 「あれ、何かガス臭くね?」「あ、ホントだ。(外に)出よ出よ」

 ということで慌てて表に飛び出しました。気づけば100人を超える寮生が駐車場にいます。

 外に出ると外壁が倒れていることが分かりました。が、かろうじて車への直撃は避けられたようです。

 「これ、日本沈没しとるんとちゃう?」「神戸でこの揺れだもんなぁ」

 僕は車のTVを付けました。そこで知った事実は衝撃でしたが、少し安心した面もあります。少なくとも日本沈没ではなさそうなので。

 「あ、神戸が中心だって」「ホンマ?」「関西やのに(地震あるの)!?」「うわ~震度6とか聞いたことないわ」

 当時は携帯電話の普及率も高くなく、学生で持っているのは一部のみ。そこで情報を仕入れている人もいましたが、上手く繋がっていたかどうかは不明。周囲はいわゆる停電状態だったので、外部情報は車載TVのみ。それでも、デカい地震があったという以外、詳しいことは分かりません。

 とりあえず、ガス漏れ騒動が収まり、多くの寮生は部屋に戻りました。僕の部屋は本が散乱しまくりで、ガラスの小窓も割れていたが、片付ければ済む程度。

 午前7時半ぐらい。「ちょっと外見に行こうか」という近所の寮生と共に、さらに高台へ車を走らせます。すると神戸市内のあちこちで煙が出ているのが分かりました。

 「これ、けっこうヒドいんとちゃう?」「あら~、ガス爆発かなぁ」

 実家や親戚に心配されているのでは、と思い公衆電話から安全を伝えました。(携帯を持っていないので。公衆電話が通じやすいというのは後に知る)。ちなみに、この時すでに「自動販売機荒し」はいました。ただ「アホなやついるなぁ」程度の認識でしたが…。

 とりあえず一番近い火元の辺りまで車で降ります。後に、JR神戸線で長期間寸断された住吉-六甲道間の陸橋が崩落したあたりまで進んでみます。辺りは家から飛び出た人たちでごった返すという状況。件のJR陸橋の崩落のせいで車でそれ以上進むことはできません。とりあえず寮へ戻りました。

 午前8時、とりあえず停電だが何もできない状態は続きます。風邪気味だったはずですが、そんなのはとっくに吹き飛んでいます。そうこうしているうち、後輩が「バイクで買出し行ってきますよ」と。「じゃ、ヒレカツ弁当な(←なぜかよく憶えている)」

 その後輩が戻ってきて、こう言いました。「もうコンビニでは、モノ取り放題ですよ」だとか。地震の混乱もあり、店の破損も酷いので商売どころじゃないようです。が、この数時間後、コンビニでペットボトルの水やお茶を千円以上で売りつけるような事件が起こり、後にバッシングを受けることになるのですが…。

 後輩が買ってきた弁当はそのまま置いてます。そこから3時間、どうしていたかは記憶がありません(寝ていたのかも)。昼12時ぐらいに電気が復旧しました。急いで電気カーペットを点け、同時に弁当をレンジで温めてパクパク食べていました。

 実は、僕の記憶が鮮明なのはここまでです。以後は記憶に残っていても時系列がハッキリしていません。

・大学院生の先輩の友人がいる一軒家に4~5人一緒にいた。コタツに埋もれ、ひたすらニュースを見ていた(これは1/17だったと思う)。腹が減ったら、あらかじめ作っていた握り飯を適当に食べる。そんなに危機感は無かった
・近くの「神戸大学付属住吉小学校」「赤塚山高校」が避難所でそちらに行く寮生も多かった(余震が怖いしね)
・自衛隊が来てパンと水を届けてくれた。震災何日後かは憶えてません。でも、お腹が空いていたので嬉しかった記憶があります
・神戸元町のグッドラックまで行ったら、麻雀卓がぶっ倒れていて麻雀牌も散乱していた
・「飲料用」のわき水を求め、18Lポリタンクで何本も汲みに行った
・寮のトイレは流れないので、大の時は近くにあるポリバケツの水を風呂桶に汲んで流さなくてはいけなかった(ちゃんと流れない、流さない人がいると臭いがキツいんだわ。とにかくトイレは大変)
・日本一の広域暴力団組織が「炊き出し」をして地元住民には非常に評判が良かった
・「ライフライン」という言葉もこの時から使われだした。個人的には電気はすぐ復旧したが、上下水道とガスの復旧は相当な時間がかかった
・京都在住の教授が、1/17当日に授業をやるという情報が伝わり、不評を買った(被害の少なかった大学寮ならではのエピドード)

 その後、数百回起こる余震を体験し、1/20(僕の誕生日)の日にグッドラックの従業員4名は、僕の運転する車で一同、名古屋に移動し、3週間ほどサウナ暮らしを続けたのでした。僕はおもに「ヤングモンブラン」と「ふじさわ」と「みそのクラブ」で延々と麻雀をしていましたね。