『芹葉大学の夢と殺人』


「ごめん」
 雄大が謝った。自分がしてしまったことに戸惑うように立ち尽くし、そして、私をその場に置いて、逃げるように、今度こそ階段を駆け下りていく。
「待っ……」
 声が途切れた。咳をしたことで滲んだ涙が、今度は明確な感情によって溢れていく。私はどこまでも、彼の人生の埒外なのか。
 清潔で清く理想的な、彼の夢。夢を見る才能と力。そんなものを生かせる場所は、この世界のどこにもない。あなたは、どこでも生きられない。
 不意の衝動が胸を満たした。
「見てよ! 雄大」
 力の限り叫ぶと、階下の雄大が足を止めた。それまで響いていたカンカンと金属を踏む音が消える。風がひっきりなしに吹きすさぶ。このまま顔を下に向けてしまったら、できない気がした。見てよ見てよ見てよ。叫んで、階段の手すりを摑み、立ち上がる。
「見てて。──あなたが私を殺すんだから」
 雄大が息を呑んだ表情をしながら「未玖」とようやく、私を呼んだ。下から上がってこようとするけど、私の動きの方が一瞬早い。
 踊り場の低いフェンスに足をかけ、目を閉じた。
 息を止め、階段から身を乗り出した時、雄大がこっちに向けて手を伸ばしたような気がした。だけど、身体は彼の指をすり抜けて、落ちていく。  
 一人殺しただけじゃ、死刑にならない。
 雄大の声を思い出しながら、どうか、と祈る。こんな混じりけのない、清く安らかな気持ちになるのは久しぶりだった。それは、かつて何度も想像にふけった、夢の世界の心地良さだった。

 どうか彼が死刑になりますように。
 どうか彼が、死刑になりますように。
 あなたが生きる世界は、この世のどこにもない。

 目を開けて上を見ると、彼と目が合った。ひどい目の色をして、上から、助けを求めるように私の方に手を伸ばしている。それは、幻想か、私の希望、だったかもしれない。



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『鍵のない夢を見る』(著者:辻村深月) より