アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/09/06(金) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/09/06(金)💖💓💛💖🌈

 


● 福音書日課:マルコ7:24-37
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。  7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 

:今週のテーマ 【自由:悲惨か栄光か】

【聖句断章】7:24 
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
    
@ 異郷の地 : 異教の地 : 悪魔崇拝の本拠地として有名なフェニキア。そこでは女子供は泣き寝入りの犠牲者である。

@ 隠密の行動の予定だったが、 人々の【自由】の行使によってそれが妨げられる。
* イエス様はフェニキアでもガリラヤでも、人々の評判になることを避けようとされた。何故か? 人々のありのままの自由が神の国の妨げになっていることをご存じだから?!
異郷フェニキア、ユダヤだが異邦人の地ガリラヤ、イエス様の行く所はみなそれぞれ深刻な問題を抱えながら、人々はそれからの解放のために、だが、迷い道を自由に辿っている。その自由な道は正しく神の国に入る道ではない。イエス様はエルサレムでの受難を意識してからはますます、外見を見る人々の目から自らを隠すようにされた。これからエルサレムに登ってゆくが、その備えとして、これからは奇跡的癒しの外見で人々の目を奪うような行為を避け、救いの本質問題に集中するようにされてゆく。

@ 初期キリスト教はユダヤ人伝道から方向転換して異邦人伝道に大舵を切ったことを昨日述べたが、今日の個所は、その異邦人側からのユダヤ的キリスト教徒に対する抗弁である。私たち異邦人にも恵みを受ける権利がある!神の栄光を賛美することは、ユダヤ人だけでなく異邦人にも差別なく開かれている。我々はみな、主にあって兄弟姉妹(はらから)だ、との主張が今日のテキストの底流に隠れている。

@ 【自由 : 悲惨か栄光か】 今週のテーマ
* 差異を差別の機会とすれば悲惨が訪れ、逆に、賛美の機会とすれば栄光が訪れる。 それがグノーシス主義とキリスト教の対決の核心だった。グノーシス主義は本質的に差別的である。知の道は人を序列化するからである。それに対して、キリスト教は全世界の民に等しく賛美の機会を与える主の栄光を宣べ伝えることを決断した。

* 先日のヤコブ書で扱われたように、善行を信仰と分ければ、人と人の間にたえず差別が生まれる。その差別はルシファーの光という根本理念に根差しているがゆえに、あらゆる細部に至るまでその差別が浸み込む。善行は信仰の実りであり、信仰と独立した善行はないと理解すれば、万人が等しく栄光に至る。

* 初期キリスト教の自由な決断のバックにはしかし隠された秘密があった。それは、神のひそかな支援、導きがあったということである。それは人間の自由を支援する神の霊の恵みに満ちた支援である。祝福された自由の決断とは、そのような神のバックアップがあってこそ、そしてそれを信じて進む決断である。

* 【さ迷い出でたるわが魂を救い、危き道より伴ない帰りて】という賛美歌がある。私の魂はしばしば迷い子になる。子ども時代に迷い子になった時の困惑と不安を思い出す。主なる神は、わが魂をたえず導き帰る善き親である(≪あなたがたは悪い者であっても自分の子どもには良いものをあたえる。天の父があなたがたに聖霊を与えてくださらないことは決してない。≫)。

* 異邦人は迷い道に自分自身の自由でさ迷う存在である。しかしイエス様はその彼らに福音として【迷い子と善親】のモチーフを提示する。 【放蕩息子の譬】である。
 
* 多神教は迷い子に帰る家、帰る父を与えてくれない。多神教は帰依者を神に縛る宗教であり、悪神である。それに対して、パウロの霊的キリスト教の神は、帰依者を保護し守り、解放へと導く善神である。

* 迷い道の多神教  ; あれもこれも。ああでもない、こうでもない。後は適当に。それなりに。 信仰も善行も(信仰だけでなく善行も必要)と、二項対立させる思考法。二項対立は真理の世界には存在しない。霊が肉を導くからである。中心である霊の交わりへの一点集中である。その意味では善行なき異邦人の、信仰のみで救われる信仰こそ、キリスト教が神からの啓示を通して選び取った道であった。

@  人間の最高の尊厳である【自由】 : 神からの創造の賜物である【自由】 : この宝を賭けて、人間は神に留まるか、自分自身に留まるかを決断しなければならない。或る問題があって、自分自身の決断が問われているとする。その問題は私の宝である【自由】を賭けるに値することか? それを熟慮しなければならない。薄っぺらい、賭けるに値しない事のために、【自由】を放棄しようとはしていないか? 

* ハニトラにかかって人生を台無しにした男の記事を読むとき、その男にもノーリターンの決断の時があったはずだが、(偽りの)愛が自分の自由を賭けるに値すると決断したのは何故か?

* FBFのTAX HAVENさんからの昨日拝見した投稿が目を引いた。≪熱狂によって人間に現実を忘れさせる存在がルシファー、唯物論によって人間に霊性を忘れさせるのがアーリマン。どちらに転んでも世界は大悲惨なことになります。≫ 今週のテーマの片割れ、【悲惨】が言われている。迷い道の熱狂が自由な決断として悲惨をもたしたハニトラ。

* しかし、あのツロ・フェニキア生まれの女は、わが子のためにその【自由】を賭けた。その自由を賭けて、イエスという異邦人の前に跪いた。彼女の周囲の人々の批判や批難の危険性を乗り越えて、彼女はイエス様への直訴が自由に決断する「時」だと判断したのだ。そのチャンスを逃せば、彼女の人生は、抑圧の悲惨に留まるばかりであることを思って、それからの脱出の勇気を神は彼女に与えたのだ。勇気とは自由の別名である。生命を賭す時と場がある。その「時」が来たのだ。

* アッシジのフランシスコが豪華な父の家を捨てて、清貧を選び取った時、誰がその行為が自由を賭けるに価するとして後押ししてくれたのか? 神の聖霊以外にはあり得ない。

* 熱狂と唯物論 : 【悲惨】の根源。 熱狂と愛を混同したハニトラ男。霊の導きを信じて、唯物論を脱出したアッシジのフランシスコ。

* 自由な選び取りは、他者の目からは一見、損な方を選んだように見えても、聖霊によって導かれた選びは本人に確信を与えてくれる。パウロは異邦人への宣教を委託されたと信じ、それを選び取った時、彼は自分自身のそれまでのキャリアの豊かさを糞土のごとく捨て去る自由を得ていた。その自由に勝る尊厳は彼にとって考えらなかった。

💓    そしてその結果、キリスト教全体が霊的キリスト教に変容して行った。彼の小さな、しかし大きな結果をもたらす自由な決断とそれを導いた神の霊が相和して【栄光】のキリストを神として拝する霊的キリスト教が誕生した。パウロの決断。それは決して偶然ではなく、聖霊の導きが働いた摂理的結果である。

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