アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/09/04(水) | ブログ 太陽と共に始めよ

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水曜特番:翻訳
Genesis 6 Conspiracy : How Secret Societies and The Descendants of Giants plan to enslave Humankind  by  Gary Wayne  2014 imprint of Deep River Books『創世記6章陰謀 :秘密結社と巨人の子孫たちの人類奴隷化計画』
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第6部 Rex Deus(神王)  : 聖杯血統  
第56章 テンプル騎士団  604-615/1003
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      ≪彼らは舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください/わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。傲慢な者がわたしに罠を仕掛け/綱や網を張りめぐらし/わたしの行く道に落とし穴を掘っています。・・・主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。≫ 詩篇140:4-9                                                                    
      
 
* テンプル騎士団がメロヴィング朝の権力再興への見果てぬ夢を抱く大きな秘密結社の運動の一部であるのは何故か?① メロヴィング朝の王たちはイエスにまで遡る血統(と伝えられる)伝説的王たちである②。

* 超秘密主義シオン修道会とは誰で何者か?

* シンクレア一族はテンプル騎士団/Rex Deus/シオン修道会/グノーシス主義者の夢の保存のためにスコットランドの守護者となった、とDavid Hatcher Childress デイヴィッド・ハッチャー・チルドレスは記している。スコットランドとテンプル騎士団の同盟関係はトロア公会議の後、クレルヴォの聖ベルナルドスが豪華なシトー修道会にスコットランドのケルト教会を(興味深さと疑いの混じった思いで)統合した後、1128年スコットランドのデイヴィッド1世王に会った時に始まった(テンプル騎士団の創設者の一人、ヘンリ・シンクレアの誘いがあったことは疑いない)③。ちなみに、シトー修道会自体、カトリックの内に自らのグノーシス主義的正体を隠していた。デイヴィッド1世王が王位に就いた時、ケルト教会は財政的に逼迫していた。そこで長老たちは最善の生き残り策として聖ベルナルドスの豊かで影響力のある強力なシトー修道会の庇護下に入るべきと思った。シトー修道会はローマに付属しておらず、当時、ほとんど独自の自治体として活動することが、或る理由から、ローマに認められていた。こうして、スコットランドの全大修道院がシトー修道会の大修道院となった④。

* その直後、デイヴィッド1世王と彼の妹が共にフランドルのブローニュ家Boulogneの者と結婚して姻戚関係になった。ブローニュ家とは、テンプル騎士団の創設を牽引した別の立役者Godefrois de Bouillon ゴドフロワ・ド・ブイヨン家を示すために著作家たちによって用いた綴りである⑤。デイヴィッド1世家は後にHugh De Payen家その他のエルサレムの十字軍王たちと姻戚関係を結んだ⑥。さらに、シンクレア家に限って言えば彼らはテンプル騎士団とシオン修道会両方の会員資格を有しており、極秘の王権を確証すると言われる家系図San Greal聖杯サングリアを含む、テンプル騎士団、シオン修道会、両方の宝物の継承者だった⑦。

* 興味深いリストを下記に掲げる。それは、シオン修道会の指導者であるグランドマスターの表である。『秘密文書』に彼らの終生在職年が年代順に記されていた。テンプル騎士団、Rex Deus、シオン修道会、シンクレア家と、グノーシス地下運動を推進した歴史上有名な人たちとの予期せぬ隠れた繋がりを総合的に理解するためにはそれらを精読精査しなければならない。

Jean Gisors ジャン・ジゾール(1188-1220)
Marie De Sain-Claire マリー・ド・サンクレア(1220-1266)
Guillaume De Gisors ジローム・ド・ジゾール(1226-1307)
Edouard De Bar デオアール・ド・バル (1307-1336)
Jeanne De Bar ジャンヌ・ド・バル (1336-1351)
Jean De Saint-Claire ジャン・ド・サンクレア (1352-1366)
Blanche D'Evereaux ブランチャ・デヴェリュ  (1366-1398)
Nicolas Flamel ニコラス・フラーメル (1398-1418)
Jean De Rene D’Anjou ジャン・ド・レンヌ・ダンジョウ (1418-1480)
Iolande De Bar ヨランデ・ド・バル (1480-1483)
Sandro Botticelli サンドロ・ボッティチェリ (1483-1510)
Leonardo Da Vinci レイナルド・ダ・ヴィンチ (1510-1519)
Connetable De Bourbon コネタブレ・ド・ブルボン (1519-1527)
Ferdinand De Gonzaque フェルディナンド・デ・ゴンザ (1527-1575)
Louis De Nevers ルイ・ド・ネヴァル (1575-1595)
Robert Fludd ロバート・フラッド (1595-1637)
Johan Valentin Andrea ヨハン・バレンティン・アンドレア (1637-1654)
Robert Boyle  ロバート・ボイル (1654-1691)
Isaac Newton アイザック・ニュートン (1691-1727)
Charles Radclyffe チャールズ・ラドクリフ (1727-1746)
Charles De Lorraine シャルル・ド・ロレーヌ (1746-1780)
Maximillian De Lorraine マキシミリアン・ド・ロレーヌ (1780-1801)
Charles Nordier チャールズ・ノルディア (1801-1844)
Victor Hugo ヴィクトル・ユーゴ (1844-1885)
Claude Debussy クロード・ドビッシー (1885-1918)
Jean Cocteau ジャン・コクトー (1918-1963)

Pierre Plantardピエール・プランタードが知られている最後のグランドマスターと考えられる⑧。奇妙なことにはこのグランドマスター表には創設の年1099年にまで遡っていないことを銘記せよ。

* Gisorsジゾールは1188年その場所でシオン修道会とテンプル騎士団が直接関係を断った楡の木の切り倒し儀式が起こったノルマンディーの著名なRex Deus一族である。Jean De Gisorsジャン・ド・ジゾールはノルマンディーのジゾールの砦の当主としておそらく楡の木の切り倒しに立ち会い⑨、その後、分離したシオン修道会の長を引き受けたとおもわれる。テンプル騎士団の方もそれ以後自分自身のグランドマスターを独立して擁立した。ジャンは後のシオン修道会のグランドマスターで、シオン修道会をヘルメス的フリーメイソンに変形させたことで注目されるGuillaume De Gisorジローム・ド・ジゾールの祖父である⑩。ジャンはまた、シオン修道会次のグランドマスターのMarie De Saint-Claireと結婚してシンシア家に入った⑪。

* Edouard De Barエドアール・ド・バルはイギリス王Edwardエドワード2世の孫であり、彼も結婚してロレーヌ家に入った。エドアールはGuillam De Gisorジラン・ド・ジゾールの妻Iolande De Barの孫従兄弟である。ド・バル家はメロヴィング朝血統の高位階層だったとおもわれている。Jeanne De Barジャンヌ・ド・バルはエドアールの姉で、バル伯爵の摂政だった⑫。Iolande De Barヨランデ・ド・バルはRene D’Anjouレンヌ・ダンジョウの娘で、Rene’s Order of the Crescent (レンヌ三日月騎士修道会)の最初の騎士だった。ヨランデは、彼女の息子でロレーヌの公爵となった同じレンヌと共に、ロレーヌの女守護者として知られた。ロレーヌ公の家庭教師 Georges Antoine Vespucciは画家Botticelli ボッティチェリの主要なパトロンであり寄付者だった⑬。

* Blanche D'Evereauxブランチャ・デヴルはロングヴィルと、ジソールの直ぐ近くのエヴル伯を継承したナヴァル王の娘である。ブランチャは後に1359年ジソールの女伯爵となった。彼女は14世紀にはランドックでは著名な錬金術師であり、錬金術に関する広範な著作を著わした。また、ニコラス・フラーメルの大パトロンともおもわれていた⑭。

* ニコラス・フラーメルは著作家、貿易業者、希少本の写字生でもあった。それによって彼は数学、錬金術、カバラ―、ヘルメス思想の高度な技能に精通した。ニコラスは未来世代から尊敬を集め、ものすごく豊かになった。未来世代の中にはアイザック・ニュートンもいた。彼はニコラスの著作の全てを読んでいたと確言でき⑮。

* レンヌ・ダンジョウは「善王レンヌ」と称えられ、ルネッサンス直前のヨーロッパ文化において最重要な王の一人だった。レンヌはバル伯爵、ロレーヌ公爵、アラゴン王、エルサレム王、などなど、多くの王族の称号を持っていた。レンヌのアンクル・ルイはド・バル枢機卿で、ジャンヌ・ダルクに随行したレンヌ・ダンジョウの祖父であり、ヨランデ・ド・バルの息子でありヨランデ・ド・バルの父である⑯。レンヌ・ダンジョウのエルサレム王の称号に注目せよ。

* Sandro Botticelli サンドロ・ボッティチェリは Sandro Filipepi サンドロ・フィリペピとも呼ばれ、Medicisメディチ家、Estesエステ家、Gonzagasゴンザガ家、Vespuccisヴェスプチ家は彼のパトロンだった。ボッティチェリはFillipo Lippeフィリッポ・リッペとMantegnaマンテーニャの家庭教師をしていた。この二人のパトロンがレンヌ・ダンジョウである。サンドロはレオナルド・ダヴィンチを教えたVerrocchioヴェロッキオのもとで錬金術とヘルメス思想を学んだ⑰。ボッティチェリは、他の多くのルネッサンスの新プラトン主義者同様、古代の秘密の再発見の探索に際してFiciniフィチーニに多大な影響を受け、フィチーニに盲目的信頼を寄せた⑱。タロットカードの最初期の組の一つとして知られている組はボッティチェリとマンテーニャのものと思われている⑲。

* ダヴィンチはボッティチェリと共にヴェロッキオの徒弟だったので彼のことをよく知っていた。ダヴィンチのパトロンはメディチ家、エステ家、ゴンザガ家だった⑳。ダヴィンチは錬金術師、ホモセクシュアル、自然の神法の礼拝者として知られていた。ダヴィンチは謎めいたグノーシス主義的異教的シンボルを彼の絵に暗号化して描いた。彼は美術作品の中にそれらの秘密の鍵を巧みに隠した「秘密の守護者」として知られていた㉑。ダヴィンチももちろんバラ十字団員だった㉒。1515-1517年の間、ダヴィンチはランドックとミラノの総督Charles De Monpensierシャルル・ド・モンパンシエ、またの名をConnetable De Bourbon コネタブレ・ド・ブルボンに技術者として仕えた㉓。

* コネタブレ・ド・ブルボン/シャルル・ド・モンパンシエは16世紀初頭のフランス最強の君主だった。彼はClaire De Gonzagaクレア・ド・ゴンザガの息子で、彼の妹はレンヌ・ダンジョウの曽曽孫ロレーヌ公爵と結婚した㉔。

* Ferrante De Gozagaとも記録されているFerdinand De GonzaqueはIsabelle D’Esteの息子で、ゴンザガ家と共にダヴィンチの著名なパトロンの一人だった。

* 実際、Nevers公Louis De Neversルイ・ド・ネヴァルはFerrante De Gozagaの従兄弟Louis Gonzagaルイ・ゴンザラである。ルイの兄弟は結婚してハプスブルク家に入り、彼の娘はLongueville公と結婚した。公爵の称号はブランチャ・デヴルによって与えられている。ルイはバラ十字会の形成に情熱を傾けたRobert Fluddロバート・フラッドなどの秘教家と親交を持った㉕。

* ロバート・フラッドはイギリスの秘教思想の指導的提唱者John Deeジョン・ディーの
弟子となり、秘教的主題やヘルメス思想の著作を多数出版したと言われている。フラッドがバラ十字団だと確認されたことは一度もないが(だがおそらくそうだろう)、立ち上がったばかりのバラ十字団を温かく支持し、最高善はMagia魔術、Kabbalahカバラ―、バラ十字の兄弟たちのAlchymia錬金術であると公言している㉖。Boothブースによれば、フラッドはカバラー主義者として賞賛され㉗、着実に神秘のピラミッドを登り、ロンドン医学校での地位を手に入れた人物である㉘。

* Johan Valentin Andreaヨハン・バレンティン・アンドレアはルター派聖職者の息子で神学者だった。アンドレアはロレーヌ近くの小さな町の執事となったが、ヘルメス的秘教的入会式を伴なった超秘密主義の秘密結社のメンバーだったとも思われていた㉙。

* Robert  Boyleロバート・ボイルはメディチ家の庇護のもとにかなりの期間、フィレンツェで過ごし、そこでメディチ家の人々が教皇の圧力に抵抗するのを助け、それはガリレオを含めた科学者や秘教家の支援にまで広げられた。ジュネーブで悪魔論と秘教の主題を学び、イギリスに帰ったボイルはスチュアート家への忠誠を申し出、Royal Society王立協会/Invisible Collegeの創設に向けて働き始めた。ボイルのイギリスで最も親交のあった仲間がアイザック・ニュートンとジョン・ロックだった㉚。

* ボイルは南フランスにしばしば旅行し、主にトゥールーズ、ナルボンヌ、カルカッソンヌ、レンヌ・ル・シャトーでカタリ派に関する異端審問文書を検証する時を過ごした。ボイルはマグダラのマリアが聖杯を手に入れるたと言い伝えられるマルセイユへの巡礼と共に、レンヌ・ダンジョウとノストラダムスの墓を顕彰する霊的巡礼を始めたことで知られている㉛。ボイルは錬金術の論文に関する原稿を出版し、ヘルメス的秘密結社の会員だったと思われるが㉜、他の人々は彼がバラ十字団員だったことを確認している㉝。

* アイザック・ニュートンはスコットランドの貴族の子孫で、ケンブリッジで学んだ。彼は1672年に王立協会/Invisible Collegeの会員に選ばれ、そこでロバート・ボイルやジョン・ロックと出会い、絆を結んだ。1703年、ニュートンは王立協会の会長に選ばれ、そこでチャールズ・ラドクリフやヨーロッパ中にフリーメイソンを驚くべく拡散した指導的人物の一人Jean Desaguliersジーン・デサグリルとの親密な関係を育てた㉞。

* ニュートンは実践的錬金術師で、ニコラ・フラーメルの錬金術の著書の愛読者であると共にバラ十字団宣言をこよなく愛していた。ニュートンはユダヤ教は大部分欠損し失われてしまった神的知識の古代の貯蔵庫だったと信じていたが、また、この失われた知識のいくらかがピタゴラス派を通して滲出したとも信じていた。ニュートンは新約聖書とイエスの神性の権威を公に疑問視したことで知られている。彼は新約聖書の或る箇所は5世紀に欠損したと信じていた。彼はグノーシス主義的異端を熱心に学ぶオカルトマニアだった㉟。ニュートンがバラ十字団員でもあったことを知っても驚くことはない㊱。

* チャールズ・ラドクリフはノーザンブリアの影響力のある家系の出身だった。彼の母はチャールズ2世の愛人Molly Davisとの間の非摘出娘である。それ故、ラドクリフは王統に属し、Charlie Stuartチャーリー・スチュアート皇子”Bonnie”の従兄弟である。ラドクリフは生涯スチュアート朝の忠実な支持者だった㊲。

* Charles De Lorraineシャルル・ド・ロレーヌは子どもの時からジャコバイト党を植え付けられていた。彼の父はBar-le-Ducバル・ル・ドクでスチュアート家の避難者に避難所を提供した。シャルルの兄弟Francois Lorraineはオーストリアの王女マリア・テレサと結婚し、シャルルはのちに、マリア・テレサの妹Maria Anneと結婚した㊳。二人ともハプスブルク朝の出である。1761年シャルルは、テンプル騎士団とホスピタル騎士団のドイツ版終末騎士団、ドイツ騎士団のグランドマスターとなった㊴。

* プロシアはドイツ騎士団の本拠地 Ordensland「騎士団の地」の中に含まれ、騎士団は教皇やカトリックの及ばない地で、グランドマスターを長とした国民国家として活動する組織で、グランドマスターの中にはどうしたわけか、ロスリンのヘンリー・シンクレア、イギリスのヘンリー2世、そして、ホスピタル修道会員として挙げられている二人のシュタウフェンベルク家の者が誇らしげに含まれている㊵。

* ドイツ騎士団は教皇と帝国憲章に裏付けられた、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と同じ特権を享受する非常に強力な組織で、黒の十字に白い上着の修道会で、ドイツ人だけで構成され、プロシアに広大な土地を所有していた㊶。ドイツ騎士団の力と影響力は14世紀末にピークを迎えた。彼らは1521年のマルティン・ルターとプロシアのフリードリヒ1世の先祖Hollenzollernホーレンツォレルンのグランドマスターの導きの下に、その間に1701年頃視界から消えて行った。

* BaigentとLeighによれば、ドイツ騎士団は、戦闘僧の先祖にあたる修道会であり、Heinrich Von Treitschtkeが書いた文書には、その戦士修道会は非常に汎アーリア主義的人種差別者で、Volkisheイデオロギーの団体だったと記されている㊷。ドイツ騎士団はヒトラーがその上にSS(突撃隊)を立ち上げたことで忘れられない地下秘密修道会である。さらに、アウグスティヌスの「命の法」の通常の修道誓願に加えて、キリスト教の敵と戦うことと、病人と負傷者を助けることを特別な義務として含む規則を認めていた㊸。アウグスティヌスが謎めいた怪しげな修道会の司教だったことについて後で少し触れようと思う。

* 1770年に、シャルル・ド・ロレーヌの従兄弟、マキシミリアン・ロレーヌがドイツ騎士団の補助司教に任ぜられ、シャルルの死後1780年にグランドマスターとなった。彼はMaximillian Von Hapspurg マキシミリアン・フォン・ハプスブルクとも呼ばれ、ハプスブルクのマリア・テレサとFrancois Lorraineの息子だった。マキシミリアンは芸術の忠実な保護者で、ベートーヴェンやモーツァルトのパトロンで、ベートーヴェンは彼の最初の交響曲をマキシミリアンに献げた。マキシミリアンの妹は有名なマリー・アントワネット・ハプスブルク/ロレーヌである。マキシミリアンは超秘密主義の秘密結社のメンバーだと広く疑われており、モーツァルトも含めたフリーメイソンのメンバーと大っぴらに交流していたことで知られていた㊹。

* Charles Nordierシャルル・ノルディアの父は非常に評価の高いフリーメイソンで、ジャコバイト党員だった。フランス革命後、シャルル・ノルディアの父はBesanconベザンソンの市長、その町の革命法廷の議長だった。ビサンコン市は長年、破壊の温床だった。シャルルは非常に広範囲の主題で多くの書を書いた。そして最後にはフランス革命に反旗を翻し、ナポレオンの敵対者としても知られている㊺。

* Victor Hugoヴィクトル・ユーゴの貴族的家系はロレーヌ出身である。彼はビサンコンで1802年に生まれた。17歳までにはすでにシャルル・ノルディアの熱烈な弟子として、シャルル・ノルディアからThe Hunchback ofNotre Dame『ノートルダムの鐘』で有名なゴシック建築についての知識を手に入れた。ノルディアとユーゴは、ユーゴの兄弟と共に、ノルディアの編集方針に則った出版社を設立した。ユーゴは霊的に非常に深い人物として知られていたが、公に、また、軍事的には、反ドイツ主義者であり、イエスの神性を否認したことでも知られている。ユーゴはノルディアの影響で彼の全生涯に亘ってグノーシス主義、カバラ―、秘教、ヘルメス思想にどっぷりと浸っていた。またバラ十字団でもあった㊻。

* Claude Debussyクロード・ドビュッシーはPaul Verlaineポール・ヴェルレーヌの詩を通してビクトル・ユーゴを知った。クロードは後にユーゴの作曲の何曲かを音楽にした。ドビュッシーはAxelという題のバラ十字団の評判の演劇から世界的に有名なオペラを密かに書いた。ドビュッシーの仲間は深く秘教に根ざしていたことで知られており、フランスのオカルト復興の著名な名前の全てと交流があった㊼。

* ジャン・コクトーは政治的に著名な一家で権力の回廊に近い環境で成長した。コクトーは、De Gaulleド・ゴールとのかなりの交流に見られるように、いつも強力な政治指導者と近い関係にあった。また、ノートルダムなどのゴシック大聖堂の補修に熱心で、歴史的なRex Deus群像に関する何冊かの著書を書いている㊽。

* シンクレア家を含むシオン修道会の全てのグランドマスターは強力なヨーロッパ貴族か、学問の世界の力あるエリートたちだった。彼らはみなオカルト主義者、Rex Deus、バラ十字団、あるいはグノーシス主義者であり、創世記6章陰謀のための彼らの仕事を義務であるかのように労し、目立たない普遍的組織、歴史の隠れた手に接触できた。シオン修道会のグランドマスターはテンプル騎士団、フリーメイソン運動、バラ十字団、イルミナティの建設者としてそれら全てをコントロールし、今日まで導いている。

* この超秘密主義組織は、全くと言っていいほど、ユダヤ陰謀の根にある非常に邪悪な悪魔的カルトである。これらの力ある集団は彼らの祖先がダビデ王につながるユダヤ人系図にあると言っているが、ユダ、ダビデ、イエスと続く真の王朝子孫ではない。Rex Deusとその操り人形である諸組織はルシファーと闇の天使たちに忠実な危険な詐欺カルトであり、神秘主義者あり異教徒である。

* そこからほとんどの誤解され誤導されたユダヤ陰謀が始まった悪しき偽装の書 Protocols of the Leaned Elders of Zion『シオンの賢長老のプロトコル』の無口な悪の書を書いたのはおそらくRex Deusたちだろう。この陰謀文書は最初脚光を浴びたのは19世紀末頃である㊾。それは1895年にロシアで表面化し、その後、二度、新聞に公開された。ロシアの秘密警察はそれを1903年出版して、ユダヤ人とフリーメイソンに率いられた超秘密主義集団が世界の国際銀行システム、司法、メディアのほとんどを支配し、世界政府を樹立しようとしていると主張した(51)。さらに『プロトコル』が1905-1906年に出版された、Black Hundredsと呼ばれる右派秘密結社の雑誌からパンフレットとして出版された(52)。

* 『プロトコル』について最初に言及したのはロシアの将軍Jusitne Glinkaの娘だと言われている。グリンカはパリに住んでいて、1884年にロシア皇帝のためにこの文書を購入したとされているが、文書はもっともっと古いものと信じられている(53)。Greerによれば、グリンカは神智学徒であり、ロシア警察の諜報員だった(54)。

 * 『プロトコル』は1897年にPhilipanovによって本の形で出版され、1901年に再度、Sergius Nilus教授によって、彼の著”The Great within the Small”の中で公開された。その後、その書は(1905年8月10日)大英博物館に展示された(55)。ニルスの書の第二版は1917年にロシアのケレンスキー政権によって破棄された(56)。ロシア反乱の間、『プロトコル』はボルシェビキの保守敵対層の間で基本的読本だった(57)。その他の版はみな、ケレンスキー政権によって破棄され、コピーを持っていた者は誰でも公開銃殺された(58)。モスクワでMorning Postへ投稿したMarsdenとかいうレポーターが1920年英語に翻訳し、その翻訳が現在標準版として利用されている(59)。

* 『シオンのプロトコル』は第一次世界大戦後、ヒトラーの国家社会主義に採り入れられ、彼の書きものやスピーチに『プロトコル』からの引用がしばしばなされ、ドイツの学校では教科書に組み込まれた(60)。未来の反キリストも、疑いもなく、これらの忌まわしいものに依拠し、引用することであろう。

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@次回:第58章 「シンクレア家」
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