アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/08/28(水) | ブログ 太陽と共に始めよ

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水曜特番:翻訳
Genesis 6 Conspiracy : How Secret Societies and The Descendants of Giants plan to enslave Humankind  by  Gary Wayne  2014 imprint of Deep River Books『創世記6章陰謀 :秘密結社と巨人の子孫たちの人類奴隷化計画』
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第6部 Rex Deus(神王)  : 聖杯血統  
第56章 テンプル騎士団  589-603/1003
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      ≪不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。≫
                                                                                    2テサロニケ2:9-12
      
 
* メイソンの遺産は何の説明もなしにテンプル騎士団と陰のシオン修道会をとおして遠い昔の諸時代と分かちがたく繋がってきている。

*  メイソンとテンプル騎士団がグノーシス主義の異形キリスト教分派とどのようにして結びついて行ったのだろうか?

* 謎めいたテンプル騎士団創設がフリーメイソンの前身のよく知られていないメイソンとどうように繋がったのだろうか?

* メイソンの飛び地は避難のグノーシス主義者とRex Deusを醸成する天国となった。メイソン伝説はメイソンが他のヨーロッパ貴族に比して不釣り合いの割合で十字軍に参加したことを記している①。メイソンが十字軍に参加したキリスト教世界のその他の者たちは全く異なった行動理念を持っていたことは疑いない。1096年、教皇ウルバヌス2世はイスラム教徒が継続的にキリスト者の巡礼を攻撃していることを理由に最初の十字軍を発令した②。メイソンの関心はしかし、彼ら自身のためにエルサレムを再建することであり、彼らが略奪出来る神殿宝物をみな奪い去ることに明確に集中していた。

* キリスト教の十字軍がエルサレムを奪還するや否や、メイソン/Rex Deus組織の擁護の下に予期せぬ新修道会が何の説明もなく教皇大勅書によって任じられた。この修道会とはもちろんテンプル騎士団である。それはヨーロッパ貴族出身の9人の創設会員(Rex Deusの記録では11人となっているが)から構成された。原初の9人は歴史修正主義者が信じさせようとした歴史とは異なり、貧しい人々でhなく、自ら貧しくなった修道士だった。これら9-11人はみな、フランドルとフランスの重要な王家出身者だった③。

* テンプル騎士団の歴史家は修道会がキリスト者のエルサレムへの巡礼を守る手だてとしてご都合主義的に造られたと記している。だがこれは秘密主義的Rex Deus(メイソン/エッセネ派)と、エルサレムでのシオン修道会の真のミッションを覆い隠す恰好の覆いだった④。テンプル騎士団と彼らのオカルト的行動指針の背後にある真の力がシオン修道会であったことに気づけ⑤。

* ローマは巡礼者保護の目的を既に聖ヨハネ騎士団という別の修道会に託していた⑥。そのために、テンプル騎士団は巡礼者の保護の偽装の下に神殿廃墟の下に秘密の文書と隠された知識を発掘することが出来た⑦。これらのことを踏まえるなら、どうしても疑問が起こって来る。この謎めいたメイソンのシオン修道会/あるいはシオンの長老とは誰なのか?テンプル騎士団を造った彼らの真の目的は何だったのか? 1975年、パリの国立図書館で発見された”Les Dossier Secrets”(『秘密文書』)として有名になった、超秘密主義兄弟団シオン修道会の夥しい会員を特定する羊皮紙が見つかった⑧。

* Steven Soraによれば、シオン修道会はその歴史経過の中で幾つかの名で存在し、1000年以上も経つ今日も存在する秘密組織である⑨。テンプル騎士団の著作家Jean Markaleによれば、シオン修道会は歴史形成に重要な役割を果たした古来の修道会だと多くの界隈で考えられている⑩。ダン・ブラウンはシオン修道会はエルサレム占領後、Godefrois de Bouillonゴドワール・ド・ブイヨン王によって1099年秘密結社として創立されたと述べている。『秘密文書はこの組織を導いた過去のグランドマスターとして多くの歴史的著名人を挙げている。その中の数名を挙げるだけでも、Leonardo Da Vinciレオナルド・ダヴィンチ、Victor Hugoヴィクトル・ユーゴ―、Robert Boyleロベール・ボイル、Issac Newtonアイザック・ニュートンなどが挙げられる⑪。この修道会は古代の秘密の知識と文書を将来適当な時に世界に開示しようとして守っている秘密結社であり、ド・ブイヨンがイエス時代からずっと彼の王家が持ってきた凄い秘密が失われるのを恐れて造ったと考えられている⑫。シオン修道会はイエスの子孫の系図を持っており、それが開示されれば、今日を我々が知っているキリスト教を脅かしかねないと信じられている⑬。

* だが、シオン修道会が存在したことを疑う歴史的証拠としてはいわゆるbona fide(善意)でなくその裏付け資料が無ければならない。しかしそのいわゆる証拠の欠落はわたしにはRex Deus諸家による誘導のように思える。加えて、シオン修道会の最後のグランドマスターとして知られるPlantardプラタードは 掴ませるように隠匿する『秘密文書』を捏造することを許している⑭。だが、グノーシス主義の著作家たち(と、おそらく内部情報からの書者たち)によって記されているように、プラタードは1984年に秘密文書問題のために総長を辞任しており、彼が捏造を許可したというのは、わたしの意見では誘導であり、おそらく彼の助命のためであろう。シオン修道会とその歴史に正統性と完全性を賦与するために不釣り合いな分量のメイソンとグノーシス主義者の擁護が存在しているように思えるので、その存在を信用しないことは難しい。この目的に応ずるように、Sylvia Browneも、捏造の中に多くの真実や正確な細部があるようにみえることを認めている。そこでプラタードはその情報をどこから仕入れたのだろうと問わねばならない⑮。プラタードとシオン修道会に関する偽情報は実際に存在しているのかだろうか?

* この秘密結社の目的はイエスの血統と信じられているものを保護し、今日まで生き残っている少数のメロヴィング朝の血統に属する会員を守ることだった⑯。Steven Soraはテンプル騎士団がシオン修道会の真の動機を隠すために組織されたと信じている。彼らの真の動機はイエスとマグダラのマリアの血統のフランスの子孫によってエルサレム王国を再樹立することだったからである⑰。それ故、テンプル騎士団は王朝の秘密を守る君たちと呼ばれている⑱。

* Gardnerはさらに加えて、新たに認可されたテンプル騎士団の主要目的は、エッセネ派、ソロモン、モーセ、エジプト、ヘルメス、そして洪水前の神殿宝物を発掘回収することであった⑲と述べている。ド・ブイヨンはカラブリアの僧に会って、古代のシオン修道会を再建するためにテンプル騎士団を創設する計画を立てた。カラブリアの僧たちはピタゴラス哲学(グノーシス主義)の会派に加入していた。その後、カラブリアの僧たちの秘密の一行は1090年頃エルサレムに到着した⑳。さらにガードナーはテンプル騎士団はアレクサンドリア図書館から救出された書物を発見し、イエス以前のエッセネ派の著作その他の豊かな宝物や知識を発見したと言っている㉑。

* ダン・ブラウンはテンプル騎士団の目的はユダヤ教神殿を発掘し、ゴドフロワ・ド・ブイヨン家の秘密を確証する(エッセネ派の)文書的裏付けを全て見つけることであり㉒、この失われた宝物と、すでにランドックに在るVisigoth西ゴート王国の宝物とを再統合させることであった㉓と書いている。発掘物には紀元66-70年のユダヤ反乱の間に隠された秘密文書が含まれていたようである㉔。それはローマ教会と新約聖書の教理に反するものとして秘密にされた。この異論書の場所は紀元410年に西ゴートのAlaricアラリックのローマ略奪の際に銅の巻物の中に記されていたようである㉕。

* シオン修道会の記録によると、テンプル騎士団の組織は紀元1099年エルサレムで設立されたが、必ずしもその時創設されたのはない。もっと古いBrothers of the Red Cross 赤十字兄弟団として知られた、テンプル騎士団と同じ紋章を用いていた僧団があり、バラ十字団会Rosicruciansに至っている。赤十字兄弟団はもちろんエジプトで光の賢者たちとしてして樹立されたグノーシス主義会派であり、Ormessusオルメッススとも呼ばれ、聖マルコによって改宗したと言われるアレクサンドリア人Ormusオルムスによって設立された。エッセネ派はまた紀元1181年までにはオルムスと彼の弟子たちと繋がったように思われる。Markaleは赤十字兄弟団は、ヨハネ派/ナザレ派や、ド・ブイヨンのグループであるシオン修道会を含め、エッセネ派の一会派であると証言している㉖。

* そのシオン修道会がテンプル騎士団を自身の私的な軍事行動部門として、(聖ベルナルドスの助けを得て)正規のカトリック支援組織としての正統性と完全性のベールの下に、キリスト教主流に受け入れられ、完全なものなった。Markaleによると、テンプル騎士団は全ての点でシオン修道会に従う私兵組織として秘密の規則を持った部外組織であり㉗、聖ベルナルドスがテンプル騎士団を赤十字兄弟団と共に認証した1146年にはエッセネ派が着るような白い上着を着るようになった㉘。

* テンプル騎士団が形成されてからはシオン修道会はテンプル騎士団と融合し、両僧団はGisorsの楡の木で分裂するまで一つだったと考えられている㉙。創設テンプル騎士団員がテンプル騎士団創設の陰で導いた力であるRex Deusだったと考えられるが、それでも、Marrによると、陰のシオン修道会組織の支えがあったからである㉚。シオン修道会をとおしてテンプル騎士団はヨーロッパの様々なRex Deus王家によって完全秘密裏に大きくなった。テンプル騎士団は聖杯㉛、トリノの聖骸布 Shroud of Turin、そして契約の箱の公式の守り手と信じられた。Marshalによれば、テンプル騎士団はいつも聖杯文学に登場しており㉜、もともとアーサー王とパーシバルの時代に聖杯を守る秘密組織として樹立されたと信じられている㉝。ガードナーは、テンプル騎士団は聖杯宝物と秘密の守護を目的とするサングリア円卓騎士の直系だったと書いている㉞。円卓騎士団は、後で述べるように、謎めいた大英雄兄弟団Brotherhood of Great Heroesである㉟。Lake英雄伝説のLancelotランセロットは後にテンプル騎士団の元型となった㊱。

* テンプル騎士団の起源が、12世紀に僧団が公の目に触れるようになる600年以上も前のアーサー王、パーシバル、聖杯にあり、さらに遡って、赤十字兄弟団と結びつくことは、わたしにとってとても興味深いことであるとともに、困惑させられることでもある。初期のテンプル騎士団は1128年に聖ベルナルドスがテンプル騎士団に、消すことの出来ない新たな規則を立てるまでは、イギリス出身のケルト・キリスト教ベネディクト会の司教、有名な聖アウグスティヌスの支配下にあったとPaul Naudonは書いている㊲。

* メイソン伝説はテンプル騎士団が最初から中近東の秘密結社との交流に乗り出して行ったことを記している。彼らから多くの教理を採用している。それらの秘密結社の中で、ドルイド、グノーシス主義エッセネ派、そしてイスラム・グノーシス主義アサッシン派暗殺団がフリーメイソンと密接な関係を持っ㊳。それら全ての組織はテンプル騎士団との間に不思議な結びつきを持っていた。事実、1129年に、300人の騎士を率いたテンプル騎士団の初代のグランドマスターHugh De Payenがダマスコを包囲したペルシャの暗殺団と同盟した。David Hatcher Childressは暗殺団はテンプル騎士団と正式の絆を結び、騎士団とほとんど一体化していたが、テンプル騎士団はそれがどんな目的であれ彼らの目的とは合わなかった。さらに、実際、後のテンプル騎士の多くは生まれながらのペルシャ人で、完全に流ちょうなアラビア語を話し、暗殺団と完全に馴染んでいた㊴。

* Assasinとはアラブ語asasから来ており、その意味は『守護者、あるいは守護兄弟』である㊵。ほとんど全ての神秘グループがウォッチャー(監視者)あるいは古の知識の守護者を意味する古名を持っていたことになっている。暗殺団は12世紀を通じてテンプル騎士団に貢納していた。だが、その理由は今日に至るも不明である㊶。1198年、Bernard the Treasurer管財人ベルナルドスはアサッシン派のリーダーをテンプル騎士団として、まるでその権利があるかのような扱いで記録している㊷。だが、ここでも何の説明もない。アサッシン派はテンプル騎士団に通訳者、解釈者、諜報員、大使、雇われ殺し屋として忠実に仕えた㊸。

* アサッシン派暗殺団はさらに、彼らのピタゴラス派とエジプト人由来の組織構造を用いた偉大な建造者として覚えられていた。アサッシン派はエッセネ派やGreat White Brotherhood(大白亜兄弟団)、テンプル騎士団と同じように、白いローブを着て、或る種の太陽礼拝を実践していた㊹。

* アサッシン派暗殺団はイスラム神秘セクト、イシュマエル派だった。その創設者はマホメットの子孫Aga Khanであり、現代でもこのセクトの信者はパキスタン、インド、東アフリカに住んでいる㊺。イシュマエル派はKarmatesカルメイト派,Ismailisイスマイル派,それにAssassinsアッサッシン派の3セクトから成っており、カルメイト派は改革に主眼を置き、結果的にイスラムとシリア、エジプト、ペルシャを含む世界を揺らし、Fatimidファーティマ朝へと導いた㊻。イスラム預言者、マホメットの娘Fatimaがマホメットの義兄弟Aliと結婚し、ファーティマ朝を築き㊼、その王朝はアマルナ王朝の悪名高いファラオ アケナトンアテンであるアメンホテプ4世の教えに基づき、世界に平和的普遍主義を造ることを夢見た。ファーティマ朝はまた、創始者Hassan-I-Sabbahを生み出した『知恵の家』を意図的に設立した。そのハッサン-I-サッバーがHashishimを設立し、それがAssassins暗殺団である㊾。カルメイト派はその後、彼ら全てを階層的徒弟制の専門ギルドへと組織した。カルメイト派はまた、ヘレニズム的、新プラトン主義的、ヘルメス的、サビアン主義教理を秘伝入会儀式を通してイスラムに持ち込んだ㊿。

* テンプル騎士団はそれら神秘的なアッサッシン派、カルメイト派、イスマイル派から彼らの組織構造をほとんどそのまま取り入れたようにみえる。テンプル騎士団とベネディクト会はまた、アラビア神秘主義と古代の知識の多くを取り入れた。アラブ人と神秘的イスラムは錬金術の知識をヨーロッパ人に教える前に何世紀にもわたって錬金術を、エジプト、カルディア、ユダヤ、ヘレニズムの統合技量へと発展させた。ノードンによれば、そうしてこの秘密の古代知識は全て、ベネディクト会とテンプル騎士団によってヨーロッパ中に配信された(51)。

* Mackeyは、テンプル騎士団はその異教的宗教をエッセネ派から採用したと信じている(52)。テンプル騎士団は、彼らがそう言っているようなカトリック僧団ではなかった。彼らは本当はグノーシス主義の秘密僧団であり、その宗教は神秘的アサッシン派とエッセネ派の伝承の神秘主義に基づいている。テンプル騎士団が見た中で抱いた信念は、神秘主義と再生を教える真の教会だった。それはローマカトリック教会によって抑圧され、迫害された教会だったグノーシス主義の宗教だった(53)。

* 神秘的アサッシン派からテンプル騎士団が倣ったイスラムのアサッシン派が外向きにはイスラムを実践する秘密結社だが、内では神秘主義を実践し、イスラムを非難していたのと同様に、テンプル騎士団も外向きにはキリスト教を実践していたが、内ではそれを否定し、グノーシス主義宗教の下での世界的万神殿の礼拝のほうを選んだ。Geoffrey Higginsによれば、アサッシン派とテンプル騎士団は一心同体だった(54)。そのアサッシン派的組織が秘密の神秘的組織をヨーロッパへと還流させ、新しいキリスト教の外装の下にローマ教会の庇護の下で繁栄して行った。これらの創設の種子は最終的にテンプル騎士団の異端への崩落へと至った。

* 1128年、トロワ公会議でテンプル騎士団はSovereign Order 最高位修道会の地位を与えられ(55)、カトリック教会の聖戦士として採用された(56)。その時、彼らはヨーロッパの大君たちから途方もなく大きな贈り物を受けたのだ(57)。テンプル騎士団はこの勅令によってイスラムから略奪した全ての略奪物を保有する権利を与えられ、彼らは紀元1239年までにはシリアとパレスチナの広大な土地を没収した(28)。テンプル騎士団の権利掌握と興隆は素早く、1139年にはイノセント2世教皇がテンプル騎士団に教皇以外のどのような権威への従属からも自由な国際的自主権を与えた(59)。このOmne Datum Optimim(「全ての完全な賜物」)の教皇大勅書は非常に有名になり、テンプル騎士団にその支配の下の全地における上級法院として法を管理するかつてない権利を与えた。テンプル騎士団の居住する国々において彼ら自身が法であった。テンプル騎士団はその後、伝説となった楡の木の下で、パリの高等法院を治めた(60)。楡の木はグノーシス主義の聖なる木である。

* ”Omne Datum Optimim”はさらに、テンプル騎士団が自らの司祭を任命する権利と自らの教会を建てる権利を与えてその権力を拡張した。この教皇大勅書は1162年に教皇アレクサンダー3世によって確証され、1188年には教皇グレゴリウス3世はテンプル騎士団が教皇以外にはどの司教にも従う必要がないと宣言した。テンプル騎士団はその時、司教の監督、権威、検閲から完全に自由になった(61)。聖ベルナルドスの助けと教皇の祝福ゆえに、ヨーロッパ王族の豊かさを増進させ、テンプル騎士団の富は溢れかえり、世界が知る最も偉大な軍事的政治的経済的宗教的勢力の一つへと変容させた。それが50年もしたないうちに起こった。Omne Datum Optimimはテンプル騎士団に途方もない特権を与え、トロア公会議を制御不能な形に変性し拡張した。Markaleによれば、この時以降、テンプル騎士団は公的活動体となった(62)。

* そうしてテンプル騎士団は彼らの豊かな賜物を売って、彼ら自身が選んだ土地と建物を手に入れた。そうして商業の幹線道路に近いところを全て戦略的に入手し、彼らをヨーロッパの遠隔地間を結ぶ必要なパイプとした。それらの新しい土地はみな全ヨーロッパの経済的、社会的、政治的生活を支配する戦略的地点にあった(63)。

* エルサレムから帰還後10年以内にテンプル騎士団は世界が知る最も影響力のある団体となった。彼らは最初の国際的銀行ネットワークを造り、ほとんどのヨーロッパ王族の財務管理者となった(64)。13世紀末のテンプル騎士団の権力絶頂期には、Paul Naudonによれば、パリの三分の一以上を所有していた(65)。テンプル騎士団の中央銀行はパリのテンプル騎士団の神殿内に置かれ、フランスの財政中心地となった(66)。

* 12世紀中葉までにテンプル騎士団はイベリア半島のかなりの土地を収集した(67)。
バルセロナ郊外モンセラートと呼ばれる場所に城を建て、テンプル騎士団はそこに聖杯と契約の箱を隠したとの伝説がある。おもしろいことに、モンセラートは、南フランスのカタルーニャと呼ばれるもうひとつの謎の地域と共に、グノーシス主義的エッセネ派/Rex Deusがキリスト以前の世紀に定住した場所だった。カタルーニャはポルトガルから放擲された後にテンプル騎士団が移住した地区であり(68)、レンヌ・ル・シャトー周囲の「Razes」と呼ばれる地域だった。この地域がフランスの直接支配に服さないSeptmaniaにあったのは偶然ではない(69)。ここはマグダラのマリアとその聖杯子孫が定住した神秘的な謎の地域でもあった。

* グノーシス主義カタリ派もテンプル騎士団と強力な同盟関係にあった。カタリ派の人々の住んでいたはカタルーニャ周辺の南フランスは、キリスト教以前のエッセネ派や後にテンプル騎士団が定住したのとまさに同じ地域だった。全ては共通の理念グノーシス主義で結ばれていた。カタリ派の信仰は古代の大地崇拝、東方の神秘主義、グノーシス主義、そしてキリスト教の混合物だった。或る人々はカタリ派のことを「西洋の仏教」と言っている。それは1209年のローマ教会に支持されたアルビジョア十字軍がなかったら、全ヨーロッパに拡がっただろう強力な宗教だった。カタルーニャがメロヴィング朝の神秘的な魚王たちが支配した地域だったことは何も驚くべきことではないだろう(70)。

* テンプル騎士団は彼らの公式の紋章のためにグノーシス主義/エッセネ派のOrmus教団、光の賢者たちである赤十字兄弟団から選んだ。ちなみに、彼らの姉妹教団、Hospitallers(ホスピタラー騎士団)であるグノーシス主義の聖ヨハネ修道会は白十字を選んだ。テンプル騎士団の赤十字はクリストファー・コロンブスの最初の二隻の船の公式旗としてたなびいた(71)。それはテンプル騎士団がコロンブスの歴史的アメリカ発見を財政的に支援したことを暗示しているだろう。と同時に、テンプル騎士団の行動理念を広く知らしめたことだろう。

* エルサレムが1188年にイスラムの手に再び陥落した時、シオン修道会はノルマンディーのGisorでの楡の木の伐採として記録された有名な伝説的出来事において公式にテンプル騎士団から分裂した。シオン修道会はテンプル騎士団がエルサレムの喪失に責任があると考えていた。そしてシオン修道会の不興は嫉妬をとおしてさらにテンプル騎士団を責め立て、創設時のHugh De Payenによって敷かれたミッションへの完全な裏切りだと非難した。これ以降、シオン修道会とテンプル騎士団は別の組織へと分かれた。楡の木の伐採は象徴的だった。この公的分離はそれぞれの組織がそれ以後、別々の独立した行動目標を持つことを意味したからである。以後、シオン修道会は素早く、完全な秘密の地下へともぐりこんだ。この緊張した分離のために、シオン修道会は1307年のテンプル騎士団解体の際にも沈黙を守った(72)。

* Gisorはその時まで、大きさ、樹齢、壮観さにおいて有名な大きな楡の木を所有していた。楡はシオン修道会もテンプル騎士団も共に属しているグノーシス主義の宗教的比喩、教理、組織の網の目において大きな比喩的意義がある。フランス語ではelmはormeであり、エジプトグノーシス主義のOrmusオルムスと同じである。オルムスはアレクサンドリアで千年紀の境に回心したと思われるグノーシス主義の聖マルコである。Ormusはグノーシス主義セクトOrmuzd、古代ペルシャのMazdean伝承(73)とゾロアスター教のAhura-Mazdaなど様々に呼ばれた。近代のグノーシス主義、ニューエイジ、神智学的宗教はみな歴史的に遡って結びついている。楡の木の伐採は創世記6章陰謀の長い道のりにおけるもう一つ別の不可解な出来事だった。

* テンプル騎士団の抑圧直後に、テンプル騎士団とのどんな関係も全ヨーロッパ諸国のローマカトリック教会への忠誠を誓う全勢力から厳しい非難を受けたことだろう。一つを除いては。何人かのテンプル騎士団の生き残りは聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団など、姉妹組織に避難所を求めたが、強力なテンプル騎士団は全員、その財産と共に、シンシア家とRobert The Bruceブルース家のロバートの庇護の下、スコットランドに密航した(74)。ブルースは王座を争うライバルを殺した廉でその時までにカトリック教会から破門されていた(75)。ブルースの破門のためにスコットランド王としてローマによる公的承認が得られず、新たなテンプル騎士団がスコットランドの庇護の下で秘密裏に為されたスコットランドでの再組織されたずっと後でやっと、1323年に教皇ヨハネ22世が波紋を解かれた(76)。

* ブルース族はもともとフランスでDe Bruceと呼ばれていた(77)。LomasとKnightはブルースがノルマン族で、Rex Deusでもあったと記している(78)。また、ロバートの子孫James Bruceは自分自身をエッセネ派の子孫だと主張している。エッセネ派も原初のRex Deusカルトであった。ブルース族は結婚を通してScota族と、DalriadaとTaraのアイルランド王たちから始まったMcAlpin王朝の王たちと直系となった。ブルースがイギリスに対して反乱を起こした時、アイルランドの古王国とスコットランドを統一しようとした理由がここにある(79)。

* スティーブン・ソラによると、ブルースとシンシア家は共に、フランス人になる前にはNorseノーズ(古代ノルウェー)のルーツを持っており(80)、ノーズの侵入と共にノルマンディーに到着した。ノードんによれば、ブルース族はまさにノルマンディーのフランドル家系であり、その家族は代々テンプル騎士団員を支援して来た(81)。Rolloはノルマンディーを滅ぼしたノーズ人だった。ウィリアム征服王は彼の曾々々孫である。ウィリアム征服王のハスティングスにおける戦勝はウィリアムのRex Deus血統を彼のノーズ人兄弟が30年ほど前に失ったイギリス王座へと押し上げ(82)。、

* De Bruce家もまた、長い強力な絆を強力なシンシア族との間に結んでいた。両者共1066年のウィリアム征服王の支援の代わりにイギリスに広大な領地を得た(83)。1062年、有名なハスティングスの戦いの前に、ノルマンの騎士たちが最初にスコットランドとアイルランドに到着した。この騎士たちの中にシンクレアのウィリアムとおぼしき者もおり、これに子孫のヘンリ・シンクレアはテンプル騎士団の創設者の一人Hugh De Payenの共同戦士だった(84)。ノーズの侵入者たちはそれ以前に紀元911年にノーズにノルマンディーを割譲したフランス人と条約を結んでいた。Saint-Claire-Sur-Epte条約での合意がシンシア家の名を襲名した由来である。

* シンクレア家もブルース家も後に共にウィリアム征服王の追放によってスコットランドへと北上して移住し、そこでMalcolm3世と同盟した。ヘンリ・シンクレアはロスリンの最初の伯爵となり、シンクレア宗家の創始者となり、ロスリンチャペルを建てた。シンクレア族は後にスコットランドフリーメイソンのグランドマスターとなった(86)。スコットランド王マルコルム3世はウィリアム・シンクレアにロスリンの地を与え、ウィリアムの息子ヘンリをロスリンの伯爵とした。ヘンリ・シンクレアはテンプル騎士団の初代であり創設者として第一回十字軍に活発に参加した(87)。

* ウイリアム・シンクレアは彼の行動と諸名代によって家門の力を実証した。彼はGaihnessギトニスの伯爵、最後のOrkneyのシンシア伯爵、ロスリンの男爵、スコットランドの首相であり大将でありシンシア卿ととして名を馳せた(88)。シンシア家はノルウェーのJahlヤールの最後としてもよく覚えられている(89)。スコットランド ロスリンのウイリアム・シンシアはテンプル騎士団の著作家たちから、重要な古代知識を保存し、聖杯、メロヴィング朝の聖なる血統、そして大西洋を挟んでまだ見ぬ大陸の情報に関する知識を持っていた秘密結社(Rex Deus)の会員だったと信じられている。(90。ウイリアム・シンシアはRex Deusであり、テンプル騎士団の団員でもあった。
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@次回:第57章 「シオン修道会」
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