アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/27(月) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/27(月)💖

 

● 賛美唱:詩編51:2-11
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。 51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。 51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。 51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。 51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。 51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。 51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。 51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

:今週のテーマ【信実の神】

【聖句断章】51:2 

わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

@ 今週のテーマ【信実の神】の賛美頌として:

 

* 「わたしの不義」「わたしの罪」を全て洗い清めてくださった神。それを成し遂げた神はイエス・キリストにおいて、その十字架の贖いにおける神である。信実の神とはイエス・キリストの十字架において人類をご自分と和解させてくださった神である。信実の神とは何処までも極みまで愛し抜かれた神である。

* 十字架において顕されたのは、本当は、わたしの不義、わたしの罪だった。それを代わりに負ってくださった神。神以外に誰も他者の罪を代わりに負うことは出来ない。自分の罪は自分で負う以外にない、と、これが我々の人生の常識だった。それをひっくり返したのが、信実の神の愛であった。

@ ダビデ : 罪びとの頭、罪赦された罪びとの元型 :

* 戦士ダビデ : 決然たるコマンダー : 妥協や躊躇なく目的遂行する司令官。英雄ダビデ。巨人ゴリアトを含むイスラエルの宿敵、神に敵対する諸族を滅ぼす使命を負い果たす英雄。

* 契約に基づく絶滅委託を真っ正面から受け止めた男。その意味で契約を守り契約に生きた男。彼と息子ソロモンは全く対照的元型となった。ソロモンは平和の人、神の知恵による牧者と呼ばれ、沢山の箴言を残し、世界と交流し、平和を保持した。だがそれを口実にその影で姦淫の罪も偶像崇拝の罪もたっぷり味わい犯した王である。しかしその妥協精神は子孫たちに禍根を残し、分裂をもたらした。彼は先週の福音書日課のニコデモ系の元型である。人間の知恵が勝っており、日の下に新しいものなしとペシミズムが支配的で、新しく生まれることを求めず現状維持のための妥協によってDS悪魔に魂を売るグノーシス・ニコライ宗のインテリで、熱くも冷たくもない人間の元型的父祖である。

* それに対して、ダビデは、契約を守り、ダビデの王朝を永遠に神の下に据えたことで記念される永遠の原理の樹立者であり、神の対して熱情の人であり、神の詩人、讃美者、楽を奏する人である。

💕詩篇51篇にはその全てが包含されている。魂の底からの熱情が発露している。生涯の禍根、ベトシバとの不義密通の不倫を神に対する罪として意識した。誰でも犯しているとおいう、単なる人間的罪の感覚ではなく。神に対して罪を犯したという痛恨の自覚。それは魂の次元での罪意識である。人々がこの詩篇を自分自身のように愛するのは、ダビデがそれを通して悔い改め、神によって生きる献身者とされることを願い求めているからである。ダビデは誰よりも神を愛した人だった。神に対して燃える男。神に対して聖なるものを捧げる男。12弟子の中ではペトロがダビデ元型に似ている。また13番目の使徒パウロもダビデ型である。ダビデはキリスト教にも大きな影響を与えた、悔い改めて罪赦された罪びとの元型である。神に真っ直ぐな人だった。聖書が言う真っ直ぐな人間とは神に対して真っ直ぐな姿勢の形容である。それら全てを含めて、彼は「聖霊を待つ人間」の元型として詩篇51篇を歌う歌人である。

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