アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/24(金) | ブログ 太陽と共に始めよ

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福音書日課:ヨハネ3:1-17
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

:今週のテーマ【人類の救いのため】

【聖句断章】3:1
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
    
@ 「ファリサイ派」であり「議員」であるニコデモ : 世のエリート

* ニコデモとイエス様の対話の不毛性 : 神とエリートの対話の不毛性
 隠れて会うことからして既に。社会の目を気にしての神との対話は真剣なものとはならない。今の最終世代に問われているのはニコデモが問うたと同じ人類の再生の問題である。その時には陰で本音を言っても始まらない。何の力にもならない。

* エリートと神との対話はらくだが針の穴を通るよりも難しい。何故なら、自分自身に沢山の富を持っているから。それはイエス様が金持ちの青年に言われたことと同じである。しかし彼自身は神の被造物として、神を愛せない、神と親しく祈れないなど、結局、霊的不全感に悩んでいる。その彼の悩みは既に顔に書いてある。目に光がない。だからこそニコデモはイエス様の元を訪ねたのだ。だが躊躇しつつ夜に訪れる。

* エリートは神に逆らう内的傾向があり、自らを神としやすく、神に反逆する側に立とうする。それはメイソンの歴史であり、イルミナティの悪魔崇拝の核心である。彼らは結局偶像崇拝者である。そのエリートが神と和解することは世界にとって重要である。たしかに人々は力あるエリートの回心を期待するが、ほとんどの場合期待外れに終わり、最終的に悪魔側の領主となる。

* だが、彼のご計画において例外はある。神はそのためにご自身が直接介入される。それがパウロの場合だった。神は人類の救いのためのご計画のために一人のエリートを召し出し、パウロを回心へと導かれた。それがパウロのダマスコ途上の回心において神が示された天からの光の衝撃だった。

@ ニコデモとの対話は結局は不毛であったが、それが福音書に記されていることには警告としての意味がある。その不毛な議論れを通して、しかしイエス様は人類の生まれ変わりの問題を開陳することが出来た。人は年取って生まれ変わることは可能か? というテーマは実に壮大なテーマである。人類史をやり直すことが出来るかと問うほどに壮大である。人類の運命的道筋を改めることが出来るのか?ここまで来たら、行き着くところまで行くしかないのではないか。だが、イエス様は人間の再生、それは神の視点からは人類の再生の問題である。人類の救いの問題である。イエス様がそのために此の世に派遣されたそもそものテーマである。

* イエス様は人類の救いのために天からメシアとしての委託を受けて遣わされた。そのことが今日のテキストの中に明確に記されている。【天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 】がそれである。人類に命を再生させるために神はご自身の御子の命を犠牲に捧げられた。

* 神は、ノアのしるしが示すように、悪のために此の世を滅ぼすかもしれないほど、此の世はどうしようもなく腐っている。だから神が世界を滅ぼす意志をもって裁きをくだす神であるとの思念が人の思いの中に浮かんだとしても自然である。しかしイエス様が今日ここで言われているのは、その真逆である。神は世を裁くための神ではない。

💕 ≪神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。≫ この世界を造られた創造主は、この世界を愛において悪魔の支配から取り戻すために何でもなさる。御子を差し出すほどに!




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