アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/04/23 (火) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/04/23 (火) 💖💓💛💖🌈


● 第一日課:使徒8:26-40
 8:26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。 8:27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、 8:28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。 8:29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 8:30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。 8:31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。 8:32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。 8:33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 8:34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。 8:36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 8:37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。 8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。 8:39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。 8:40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

:今週のテーマ【復活の主に繋がる】

【聖句断章】 8:26
さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
    
@ あなたは天使のお告げを信じるか? わたしは信じる。わたしは神を信じる。神の世界に偶然は何一つない。肉的にも霊的にも、目に見える世界でも目に見えない世界でも、神は全てを統べ治められる。我々はそのようなことを妄想として退け片づける文化の中に生まれ、洗脳されてきたが、今やその時代は過ぎ去り、霊的世界、目に見えない世界が肉の世界、目に見える世界を制御していることについて我々はもっと真剣に本格的に考慮してゆかねば、人間性を見失う時代に差し掛かっている。そのような時とは終わりの時代である。イエス・キリストの復活の時代も同じだった。そしてそのような終わりの時代と現実世界はいつも繋がっているという理解の方がどれほど実相に即していることか。しかし今はその判断は各自に委ねられている。

* 神は多種多様な委託を受けた霊的実在の天使をとおして御心を示されている。しかし今日のフィリポにはそれがまだ分かっていない。かつてイエス様はフィリポが「父を示してください」と願ったことに対して、「あなたはまだ分からないのか。父とわたしは一つである。わたしを見た者は父を見たのである」とお答えになった。そのイエス様は今や復活の主としてふたたびフィリポを導く。そうしてフィリポはようやく天の父と御子が一体となって自分を導いておられることを納得する霊を受けた。それを理解できた瞬間にフィリポは得難い大きな恵みを受けたことになる。全ての事は、復活の主との繋がりが分かっている人には貴重な知恵の経験となる。

* それを知ったのちのフィリポはもはや何故わたしがこんな寂しい道に向かわされるのかとは思わなかった。復活の主が共におられることを知っているから。その悟りは今週のテーマ【復活の主に繋がる】とつながる。

* 神の霊の呼び掛けに応え、それに従ったことは思いがけない展開へとフィリポを導くこととなった。聖書を読むエチオピアの帰路、ひとりのエチオピアの高官の宦官との出会いである。

* 「宦官」:古代では権力と性との関係は特異であった。否、古代だけではない。権力と性の関係は権力には不可避的な人間の問題としてたえず付きまとっている。権力を維持する知恵として宦官も生まれた。今日ではさらに大きく問題は拡大し、最近LGBT法案が日本の法案として無理やり通過させられたのもそのような大きな背景の下でのみ理解できる。だが理解できることと了解することとは全く別問題である。

* そうして権力に近づくことが出来たエチオピアの宦官だったが、その彼が いま聖書に近づく機会を与えられている。誰が彼に聖書への道を案内したのだろうか。エチオピアはソロモンの時代からイスラエルと関りがあり、キリスト教の歴史も最古である。だから誰からというより、彼自身の生まれた国の伝統に従ってどこでも聖書を読む習慣が身についていたのだろう。我々は宦官と聞いただけで或る種の違和感を覚える世代に生きているが、神の現実と此の世の現実の接点での真実を知るためには、そのような既成概念を捨てて、ありのままの現実に向き合わなければならない。だから性急に誰かが或る集団に属しているという理由だけで裁いてはならない。復活の主にあって神は別の道を用意しておられる。

* エルサレムからガザへの道。それは「寂しい道」だった。エルサレムとガザの両方が登場するこの場面で、先日来の翻訳箇所「アビム人」でダビデがサウルの嫉妬から逃れて行ったのがガザだった。ガザなどペリシテ人の5都市の領主に庇護されて、ダビデはサウルの追手から逃れることが出来た。から想起させられるのはダビデの逃亡の道である。そうして流れが変わり、サウルが戦死し、ダビデが後継者として王位に就く。そして建設したのが首都エルサレムだ。ダビデはその逃亡期間の間に将来の王としての神からの委託を受けたのである。だから、フィリポが向かうように示された「寂しい道」は 決して単に寂しいだけでなく、むしろそこでこそ神と出会う場として選ばれた道だったと、後から考えることが出来る。またそもそもイスラエルは寂しい道である荒野の40年を経て、約束の地に入ることができたのだ。その当座はその意味が分からず、何故わたしにこんな小さなつまらない務めが与えられたのかと疑い、さらには嘆くのではなく、神の判断の答えが時と共にわたしに理解できるのを待って、性急な判断は保留にすべきである。

💓 復活の主は霊において私たちを常に日ごと夜ごとに導いておられる。主を讃美しよう!
 
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