アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/03/29 (金) | ブログ 太陽と共に始めよ



● 福音書日課:ヨハネ20:1-18
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

:今週のテーマ【復活:神の解放と人間の開放】

【聖句断章】20:1
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
   

 

@  「墓から石が取り除けられていた」 : 新しい神の世界の開闢

* これは神の業。人間が自分自身で石を取り除いたのではない。この石は単なる墓石ではない。それは人間の死を封印する、絶対的と思われる人間の定めを象徴している。これを取り除くことは人間の力を超えたこと。人間には出来ないこと。人間の知恵と知識の限界の彼方にある事。それをなしとげた力こそ、今、復活を通して示される神の出来事。それは人間世界に全く別次元の福音としてもたされる天からの知らせ。だからこの朝、マグダラのマリアの前に二人の天使がその事を伝えるために遣わされている。

* 十字架において、悪魔に唆された人間の知恵と知識が勝利したかに見えた、悪魔と神との対決はこうして、復活の朝、神の勝利で終わり、神の栄光が新たな世界の開始を告げる。それがキリストの復活である。

* 神が人間を贖うために介入して、もたらされた新世界は神の霊の次元、霊の神の啓示である。肉を超克する霊の次元を開く神の介入の出来事がキリストの復活によって開かれた。肉から霊へ、闇から光へ、神は人間を導き、招く。


@ 詩篇 118:22-24 ≪家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。≫

* 復活を焦点化するために、此の世がデフォルメされる。もはや此の世の細部まで一部始終描く必要はない。そうすることによって、神への焦点化が見得なくされているではないか。此の世の事で如何に詳細に語っても、それだけは問題は解決せず、我々は解放されない。我々は他者の世界へと自由に開かれない。今、我々は此の世のバランスの重視とは別の別次元に招かれており、我々は此の世のバランスを超えた神の「不自然な」介入、超自然な天的出来事に直面している。此の世のバランス論理はもはや限定的なものとしてデフォルメされて、あらためて神の復活の視点から捉え直されなければならない。その時、此の世のバランスとは何かがあらためて新たな視点を獲得する。マグダラのマリアはイエス様を主と仰ぐ者へと変えられ、その視点から改めて相対的な此の世のバランスもその場を得て、新たな機能を獲得する。彼女は急いで弟子たちに伝える委託を実行する。天と地を結ぶ役目を果たす。

* キリストの復活の朝の物語において、マグダラのマリアは此の世全体のデフォルメである。此の世全体がこの一点にデフォルメされている。それは復活に焦点を当てるためである。これまでは此の世に焦点があり、復活以後の世界が背景にデフォルメされていたが、今や、復活以後の御国の出来事に焦点があり、此の世がデフォルメされる。カメラの焦点深度の抜本的変化の比喩を想起する。

😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄