アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/03/17 (日) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/03/17 (日)💖💓💛💖🌈

 

💓    週初め版:今週のテーマ【隠れ家】

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    「創造物の賛歌」 ( 兄弟太陽と全被造物による賛歌)
 
                                     by アッシジのフランシスコ

いと高き全能の善なる主よ  
    賛美・栄光・祝福はみなあなたのもの
                御名に叶う者は誰もいません

主はたたえられよ   兄弟 太陽によって
    太陽は昼を治め 私たちを照らします
    美しい大きな光によってあなたはご自分を映し出されます

主はたたえられよ    姉妹なる月や星星によって
    あなたは 姉妹たちを明るく貴く美しく天に配置されました
    
主はたたえられよ   兄弟なる風・空気・ 雲によって
   あなたは それらの変幻する天象によ って 被造物すべてを支えられます

主はたたえられよ   姉妹なる水によって
    水はすべてのものを生かし 驕ることなく 貴く純粋です  

主はたたえられよ  兄弟なる火によって  
    火は 美しく、心地よく、逞しく、力強く  死の闇を照らします
    
主はたたえられよ  私たちの母、姉妹なる大地によって
    大地は私たちを養い育て  彩々の草花を茂らせてくださる

主はたたえられよ   あなたへの愛のために 人を赦し、
平安のうちに病と苦しみに耐え忍ぶ人々によって
その人は幸い! いと高きあなたから栄冠を受けます

主はたたえられよ   姉妹なる死によって
生きている者は誰も皆一度は死ぬ
だが 罪のうちに死ぬ者は災いである
御心の中に生きる者は幸い  第二の死がその人を損なうことはない

とこしえに主をたたえ 主に感謝しよう
へりくだって 主に仕えよう

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『現代に生きる”太陽の賛歌”』  エリク・ドイル 石井健吾 訳 より
St.Francis and the Song of Brotherhood
Original English Version 1997  The Franciscan Institute
/ Text copyr8ight 1980  by Eric Doyle

@第13章:感謝、謙遜、奉仕 (その10)

【 わが主をたたえ、寿ぎ、深きへりくだりと共に感謝のうちに主に仕えよ】

*  わたしが数年前発表した平和と自由に関するエッセイ集に多少の輔弼変更を加えて再録してこの章を終わることにしよう。

* 教育は、初等、中等、高等の三段階レベルで方向づけられるべきである。

(1)各人の独自性と品位の、より深い理解を教えること。信条や肌の違い、人種の違いを越えて人間は夫々独自性と一度限りに人生を持っており、それはその人がこの世界において有するかけがえのない価値の根源である。クローン化もそれを妨げることはできない。クローン化によって遺伝子コピーを作ったとても、それらは実際、同じものではない。文学、芸術、科学、神学、神秘的著作は、この評価を獲得する広範な意味と機会を提供する。

(2)個々人は他の人間なしに完全な人格になることは出来ないことを示すこと。人間を定義するなら、「他者と共にいる存在」、「他者のための存在」である。個人間の関係の真の土台は、あるがままの他者を自我と利他主義的関心事から同時に守る愛である。

(3)一人ひとりの人間はまず何よりも人類家族に属し、そのホームであるアースに属していることを伝えること。その結果としての被造物全体の普遍的兄弟性を教えること。

(4)歴史が目的を持っていることを説明し、世界史の学びを可及的速やかに経験させること。歴史は、イギリスとかイタリアとかヨーロッパとかアフリカから始めるのではない。まず星々の歴史から始めて、それから惑星、そうしてその中にアースが属することを教える。そしてその後、陸地が来る。こうして惑星アースのごく小さな場所に至る。そして最後にそれを星にまで連れて行く。その関連性の中で教育は、人間自身の過去を受け入れ、開かれた未来に身を任せ、現在にあって平和の中に生活する仕方を教えることを目ざす。

(5)一致は画一化ではなく、相違は分裂ではないことを、分かち合われた経験を通して教える。我々は地上の言語や文化や国家の多様性を、自己誇示と排他性のためではなく豊かさと複雑性の名において大事にする必要がある。もし我々が皆同じだったら、災難としか言いようのないうんざりしたものとなるだろう。

(6)東方と西方の神秘的伝統の宝を分かち合うこと。それに沿って、既に存在する世界の宗教間の一致を分かち合うこと。フリードリヒ・ハイラーによれば、世界の高度な宗教が示す一致には次の七つの主要な場がある。

※1.第一に、超越した聖なる神的他者・・・
※2.次に、この超越した実在は人間の心の中に内在する・・・
※3.この実在は、人間にとって最高善で至高の真理である・・・
※4.この神的実在は人間に対し人間の中で自身を示す「究極の愛」である・・
※5.神に向かう人間の道は普遍的に犠牲の道である・・・
※6.全ての高度な宗教は、単に神への道であるだけでなく、同時に常に隣人への道であることを教えること・・・
※7.愛は神への最も優れた道である。

(7)事物と生命の聖性への深い尊敬を分かち合うこと。これを実現する最も分かりやすい道が、『兄弟なる太陽の賛歌』を歌い唱えることであることを教えること。

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 ☆【今週の聖句テキスト】 主の受難主日

● 賛美唱:詩編31:10-17
31:10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。 31:11 命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。 31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。 31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。 31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。 31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。 31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。 31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。
 
● 第一日課:イザヤ50:4-9a
50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 50:7 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 50:8 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。

● 第二日課:フィリピ2:5-11
 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
 
● 福音書日課:マルコ15:1-39
15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。 15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 15:28 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

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☆ブログ「太陽と共に始めよ」 今週のテーマ:【隠れ家】

* 今週は四旬節から復活主日に至る7週の第6週、四旬節第6週、主の受難週です。

先週のテーマは【大祭司】でした。今週のテキストは私たちに何を示してくれるだろうかと思案している間に、わたしは夢で奇妙な言葉に際会させられた。その意味がはじめは何のことかわからなかった。しかししばらくして示されたことは、驚くべく、今週の主の受難週のテーマ、そしてテキストにかなっていることであった。その突拍子もない言葉とは「隠れ家」という言葉だった。

それがどのように今週のテーマと繋がるのか。それを説明したい。

☆ 主の不思議なことば 【隠れ家 】は二つの双極的な対照の概念である。それは、最初、人類の最初期から存在して来た 悪しき兄弟団の秘密の隠れ部屋のイメージとして現れたが、続いて、神の民の「聖徒の交わり」としての教会でもあることが示された。我々人類には二つの相反する隠れ家がある。一つは、悪霊の隠れ家であり、もう一つは、神の子らの隠れ家である。それは隠れ家として、フリーメイソン vs 教会の対照である。それはまた 制度 vs 霊とも繋がる。隠れ家としての蛇兄弟団は神への敵対スキルを研鑽する場となった。それに対して、隠れ家としての教会は神の民が忍耐を通して従順を学ぶ
場となった。

* 人間は悪魔の側にあれ、神の側にあれ、いずれにせよ、その中枢において隠れ家を必要としている。神の民のために究極としてそれを提供するのが、キリストの十字架であり、その犠牲の元に新しい命が蘇り、霊の神殿が各自の心の中に刻まれる。この新しい神殿こそ、神の民の隠れ家である。この隠れ家なしには神の民は悪魔とその業に対抗できない。悪魔もまた、彼らの隠れ家で人類奴隷化を画策し、血の誓いをもってその実現に邁進している。

* 聖なる隠れ家と邪悪の隠れ家がある。そのことを示され、今週の主の受難週のテーマとすることを大胆に提示することを昨夜の夢は啓示してくださった。
というわけで、一風変わった、ふつう思いつかないような受難週テーマだが、今週のテーマを【隠れ家】とさせていただく。

💓このテーマを主のご受難を扱う今週の三つ四つの聖句が私たちに聖なる光を照らしてくださり、私たちが大祭司に導かれて、聖なる隠れ家を見つけ、神の忠実な祭司とされることを願いつつ、今週も私に託された和解の務めを果たして行こうと思います😊。

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