アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/03/08 (金) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/03/08 (金) 💖💓💛💖🌈


● 福音書日課:ヨハネ3:14-21
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」  

:今週のテーマ【贖いの主】

【聖句断章】3:14
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
    
@ この聖句は十字架の真理をよく示している。人の子が社会の蛇(蛇蝎)として群衆の前に晒されたという意味があると同時に、その人の子の姿に自分自身の罪の代理者/解放者/を観る者は救われるという二重の意味が含まれている。あなたがどちらの意味で十字架を観ているのか。

* この二重性において、或る人々には呪いの対象として見え、或る人々には救いの対象として見える現実を私たちはどうしようもなく認めてしまう。それが現在の現実である。どんなに理を尽くして情を尽くして説得しても危機を伝えられず、多くの人々は大きな門を通って滅びに至る広い道を行く。わずかな人々のみが狭い門を通って細い道を通して救われる。

* 16世紀の宗教改革者カルヴァンもきっと同じような社会情勢の中を歩んでいたにちがいない。いわゆる終末的時代を生きていた。カトリック教会の桎梏から逃れようとしていた人々と共に宗教改革者として生きたが、そこから来る様々な後遺症は酷かったに違いない。有名な二重予定説を提唱したのもそのような背景から観れば自然である。救われる者と滅びに至る者が社会を分断し、 教会内にも此の世と同様の分裂状況が並存していた。運命的に分かれ別れにならざるを得ない無理解の現実の中で彼が聖書から聞いたメッセージであった。

* 聖書にはそれを指示す聖句が新旧約聖書全体を通して散りばめられているが、今日の個所もその一つである。イエス様こそその分断分裂の状況に心張り裂けるほどであったにちがいないが、それにもかかわらず、彼は、≪神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである≫と、救われるべき世界を全面的究極的に肯定し積極的に受け止めておられる。≪神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである≫と。

* だがそれにもかかわらず、救われる者と神の裁きの前に消え去る者の間の分裂の目の前の現実はどうすることもできなく認めざるを得ない。その両者を併せ持つ現実を前にして、いずれにせよ、「人の子」は上げられ「ねばならない」とイエス様は断言される。それは神的必然だ、神の御心だと。イエス様の十字架は此の世の闇の真っ只中に高く掲げられた。多くの人々がその光景を見るために。その中には隠れて自分自身の姿を観る人々も大勢いた。サイレントマジョリティーの魂が那辺にあるか、それは神のみが知りたもう。洗礼者ヨハネは十字架のイエス様を預言的に指示しながら、イエス様との最初の出会いの時既にイエス様を指さして「この人を見よ」と言っている。この人にこそ神の御心が啓示される。ヨハネが観たのは魂の解放者としての神の子の姿である。

💓 今週のテーマは 【贖いの主】だった。今日の福音書日課に照らしてみれば、贖いの主とは救いの主である。人間を毒蛇の跋扈する罪の世界から救い出すという課題が切迫した課題として見える時代が到来している。その邪悪な権力はあまりに強大で、個々人はその前には無力である。だがあなたは独りではない。あなたを造られた神は必ず民を救うためのメシアを送られる。究極的にあなたは世界の救い主を信じるか、それとも世界は虚無で偶然の産物なのか、と私たちは問われる時代にいる。それに対する答えを各自が自分自身の目と感性と頭で判断しなければならない。

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