ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/09/27(金)💖💓💛💖🌈


● 福音書日課:マルコ9:38-50
 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」  9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 9:44地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 9:46 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

:今週のテーマ【律法の精神】

【聖句断章】9:38
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
    
@ 今週は第一日課の民数記から、出エジプトのイスラエルと一緒に雑多な他国の人々が加わって、問題が起きた時、イスラエルがそれを同化できるのか、それとも彼らを峻別しなければならないのか、の瀬戸際に立たされる経験をしたことから始まった。

* その答えは果たして、今週の聖書テキスト全体を通して正しく答えられただろうか? 同化できるか? それとも峻別の対象とすべきか? その分かれ道はどこにある? 識別の問題である。

* 今日の福音書日課はそれに対しする答えと成っているか? イエス様は今日のテキストで≪わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。≫(マルコ9:40)と同化に傾いた言質を与えられているが、真反対のことも他所で言われている。≪わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。≫(マタイ12:30)と。

* この両極性が今週のテーマ【律法の精神】と繋がって行くと思う。律法は拒絶と抱擁の両面を持っている。その使い分けの基準は、神と人間との間の愛の交わりに益となるか?それとも、神に反逆する悪魔の益となるか? その基準の分かれ目は単純ではない。だから即断は禁物。だから、「然り、然り」「否、否」としか言えない。神が教えてくださるまで、人間の考えは最終判断を保留にすべきである。自分の考えに固執して、それを声高に叫ぶ時、人間は変わることが出来なくなり、悔い改めて神に立ち返ることができなくなる。

* イエス様が、相手を受け入れる時、悪魔よ、出て行け、と退ける時と、臨機応変に出来るのは彼が【律法の精神】に則っているしるしである。そのイエス様の律法の精神に福音書日課は如何に応えているだろうか?

@ 今日のテキスト中で、≪キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者≫ に対して、 ≪ 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者≫が対照的に語られている。 【キリストの弟子】は【わたしを信じる小さな者】と言い換え可能である。そして【彼らに一杯の水を飲ませてくれる者】が【わたしに反対しない者】に対応している。それに対して、【わたしの弟子を躓かせる者】は【わたしに敵対する者】に対応している。その相対する両者の間を天国と地獄の境界線が走っているとイエス様は示唆されている。

* 真理を巡る事柄は、深遠のように思えるが、本当は単純である。単純であるからこそ、大きな結果を及ぼす。そのことを、イエス様は、人の子が最後の審判の時に天使たちと共に来られる時の最終的裁きの基準として語られた(マタイ25:31-46)が、その基準は実に簡単明瞭であり、今日のテキストと完全に符合する。 『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 『この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
 
@   だが、究極の【律法の精神】は、私たちが律法に従って為す業ではない。神がご自分の豊かさを人(民)に施す術である。

* 人間が律法の精神を見出す前に、神が人間のためにその富を施すための手段である。

* 人間の探し求めはそれはそれで尊く、その報いは大きいが、探し求めは人間性の貧しさ、飢えから来るもので、どうしても欲望が滲み出て隠すことが出来ない。

* それ以前に、既に、神は人のために、その豊かさを分かたれる。それはもちろん霊的豊かさである。そうして、神は人の神となる。そうして、人は神の祝福の民とされる。

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