「納得できる死別」を経験できるというのはどれくらいあるのか?と、ふと思うときがあります。


私の母が亡くなったのは突然でした。


最期の会話は、亡くなる2か月くらい前に

「私が一方的にふっかけた喧嘩」


あれが最期になってしまったの?


そう思うと、自分自身を許せなくなり

私が死なせたようなもんだと感じ


「私はもう、幸せにはならない」



そんなことを無意識のうちに自分に誓っていたのです。



そんな誓いが終わっていった経緯は


潜在意識を学び、シータヒーリングを学びながら、活用しながらです。


自分を許せるのは、最終的には自分しかいないんだということを痛感しました。



シータヒーリングを学ぶことでスピリチュアルな能力が思い出された私は


亡くなった母の魂に繋がり


「私は幸せになっていいのか?」と聞いたことがあります。


そしたら母は


「幸せになっていいって、自分が決めることが大事なんだ」


「お母さんはあんたに幸せでいてほしいと思っているけど、決めるのは今生きているあんた次第なんだよ。」


という趣旨のことを言われました。


自分で自分のことを赦すということほど難しいことはないけど



かといって、母が「いいよ〜幸せになりなよ〜」とさらっと言ってくれたとて、


私は幸せを選ぶのか?

母に選ばせてどうするんだ?


やっぱり、私次第なんだよな。

私が決めることなんだ。


母が亡くなってからも、

「私が母を死なせたようなもんだ」という

後悔と罪悪感を“見せかけて”


実のところ、自分自身が自分の意思で幸せになっていくという責任を取りたくなかった側面があることを


私は気づいていきました。


散々このテーマと向き合いまして


私は今もなお、「自分の人生を生きるという自己責任を全うする」ことを実践しております。