劇団の養成所時代のことです。
あるとき先生から出された課題はユージン・オニールの、
「ああ初恋」という戯曲のワンシーンでした。
そして、その場で課題を読み終えた生徒たちの間に、
ちょっとしたざわめきが巻き起こりました。
課題の中にキスシーンがあったからです。
クジ引きで決まった僕の相手役は、
とっても可愛い女の子でした。
でも、彼女はすでに先輩俳優の彼女でした。
公私混同の僕はなんだかとてもガックリしました。
だけど今から40年も前の頃のことです。
いくらキスシーンがあるからといって、
本当にキスする度胸のあるチームはいませんでした。
2組をのぞいて。
そのうちの1組は、
その後そのまま恋人同士になりました。
そして、もう1組が僕の友達のO君のチームでした。
O君は中々の二枚目でプレイボーイでした。
何組かで合同自主練習をしてたときに、
「なんか感じがつかめねえ」とか言い出して、
僕たちの目の前でいきなりキスしてしまったのです。
相手の女の子はかなり動揺していましたが、
まんざらでもないようでした。
しかし、O君は、
あくまでも芝居なんだからとシカトでした。
その日は朝から強い雨が降っていました。
遠くでは雷の音が聞こえています。
この雨が上がるといよいよ夏到来です。
僕たちは劇団研究生の溜まり場だった、
いきつけの喫茶店にいました。
丸テーブルの向うにはO君、
僕はチキンカツ定食を食べていました。
しばらくして例の彼女がやってきて、
カウンターに腰かけましたが、
O君はまったく無視でした。
彼女はマスターに注文しました。
「カレーライスとソーダください」
それからちょっと考えて
「ソーダをクリームソーダに変えてください」
と訂正しました。
店内はレッスン後の研究生たちで、
ワイワイガヤガヤと賑やかです。
彼女の前にクリームソーダが運ばれてきました。
でも、彼女はそれに口をつけようとしません。
やがてカレーライスが運ばれてくると、
彼女はクリームソーダとカレーライスを、
両手に持って立ち上がり、
O君の後ろにツカツカとやって来て、
なんと2つ同時にO君の頭にかけたのです。
「熱い!冷たい!」O君は思わず叫びました。
僕はその瞬間を目の前で目撃しました。
賑やかだった店内が、
一瞬のうちにシーンと静まり返りました。
「O君なんて大嫌い!」
彼女はそう言うと雷の鳴る雨の中を、
傘もささずに駆け出して行ったのです。
暑い夏はすぐそこまでやって来ていました。
ああ、青春だなあ。