AUS編アデレードその③ 『アボリジナル 悲しきブーメラン』 | 世界のキモタク大冒険!

世界のキモタク大冒険!

恥ずかしがらずにワールドワイドな伝説作りに
取り組むことを誓います!
皆さん笑ってやってください!




いやはや ずいぶんブログ更新をサボってしまった

毎日更新しないといけないんだろうけど 

ムズいですな、、、




というワケで遥か昔の出来事を書いているワケですが

一所懸命に書くのでヨロシクお願いします!






んな感じで


アデレード滞在記



孤独だったユースホステルを離れ日本人バックパッカに滞在したオレ

バックパッカ内はかなり生活感があって

ファミリーチックな雰囲気だった


ドミトリーは2段ベット×3の6人部屋

ほとんど長期滞在者で

日本男子が3人、日本女子が1人、香港女子が1人寝泊まりしていた


セキュリティ意識が低く

I pod やら貴重品が置きざらしだ

今までの宿とは明らかに違う雰囲気を感じていた




早速仲良くなったフトシくんタツキくんを誘って

オレが最も興味を持っていたアボリジニナルの展示を見に

州立博物館に向かった


※ よく言うアボリジニと言う言葉は差別的な表現が強いため
 オレはアボリジナル(先住民)という言葉を使わせてもらう

 






<アデレードでのメイトその①>


   ↑
年が近めなフトシくん
真面目で優しい九州男児



   ↑
お調子者のタツキ
学校出た後親に放り出されて嫌々オースに来たらしい
弟的な存在







着きました

南オーストラリア州立博物館 
                            -south australian museum-








世界最大のアボリジナル展示 で有名



オレは旅の道中たくさんのアボリジナルな人々を見てきて

彼らの本来の文化や生活を知りたくなっていた




中に入るといくつかのエリアに別れていて

化石やら鉱物が色々展示されていた



   ↑
こちらはオパール
オーストラリアはオパールの大生産地



   ↑
割れた石の中で細かく七色に光っていて
とても美しい



その他館内にはオーストラリア大陸の自然や古代の化石なんかの

展示がされていた









そしてメインのアボリジナルエリア






南太平洋に起源を持つ彼らは

筏を使って5~12万年前オーストラリア大陸に渡ってきた


その後も段階的にパプア人、ポリネシア人、オーストロネシア人などが

流入しアボリジナルが形成された






アボリジナルは見た感じオレらが想像する原住民っぽい感じ

黒い肌に大きなダンゴっ鼻

特に女性や子どもに金髪が多いのも特徴



彼らは洞窟などに暮らし

槍やブーメラン、毒等で動物を狩り

木の実を採取したり 木の幹から幼虫をとる 狩猟生活を営んでいる


いまでも主に中央部、北部、中西部における

アボリジナルランドで伝統的な暮らしが続けられている




    ↑
  不思議な模様の装飾品



アボリジナルアートと呼ばれる絵は

あらゆるものに描かれていて


元々は粘度質の土を利用した壁画やボディペインティングから派生した


1971年にイギリス人の美術教師ジェフリー・バーデンの指導により

西洋のアクリル絵具とキャンバスによって描かれはじめたのが

今日の「アボリジナル・アート」の始まりとされている







アボリジナルアートは

点描画、レントゲン画法という 主に2種類の表現法から成り立っている


               ↑
点描画 Dot painting

多くのドットとその集合により様々な世界を表現している

元々動物や食用植物、水がどこにあるかを示すために

幾何学的な模様を地面に描いて地図のように使っていた

その後キャンバスに描くようになってからこの点描画が誕生した




                  ↑

レントゲン画法 X-ray painting


動物の骨格や内臓が透けて見えるように描かれている

これは動物の食べられる部位、食べてはいけない部位などを伝達するために用いられた





そう 
文字を持たないアボリジナルの人々にとって

生きるための重要な情報伝達手段でもあったのだ








    ↑
    盾たち


    ↑
    槍たち







その後 生粋のアボリジナルによるブーメラン狩猟 映像記録を観た


      ↑
よく見ると体に横一文字の切れ込みを多数入れ

ミミズ腫れが固まった肌をしている

タトゥーの様なファッション的なものかな?




      ↑
ブーメラン投げの映像が始まります




      ↑

写真ではわかりづらいが

無駄のない筋肉を撓らせ

完璧なフォームで投げる

100メートルぐらい飛んだんじゃないか?!



しかも手元に戻ってきていた



スゲ~! スゲ~!
美しすぎる!!!!!







そしてもひとつ有名なのは


ディジュリドゥ


ユーカリの木をシロアリに食べさせて空洞化した楽器

白人が音をディジュルドゥと聞いて この名前になったそうだ


オレもチャレンジしたが 難しくて吹けなかった、



アボリジナルの文化、風習は独特で興味深い









そしてオレは疑問に思った




なぜ
「ホームレスのような
  アボリジナルが一部の街にたくさんいたんだ??」



なぜ

「ヒッチハイクで乗せてくれたアボリジナルは
   いい人なのに何でフレンドリーじゃなかったんだ?」





「白人ドライバーがアボリジナルのことを
    動物の様だと嫌っていたんだ?」



なぜ
「別の白人ドライバーに
 アボリジナルについてどう思うか尋ねた時
 人種のくくりで人を判断してはいけないよ
    と言われたのか?」








残念ながら
その答えは博物館ではなく

インターネット上にあった







そして
信じがたい 
悲しい歴史が浮かびあがってきた







※下記の文章はWikiをベースに
英語、日本語 様々な情報ソースから
真実であろう文章をまとめたものである
非常にショッキングな内容であり
第三者のオレが内政干渉していることと
を予めお断りしておく









今から400年前、西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、


50万人から100万人ほど 

アボリジニナルがオーストラリア内に生活していた


言語だけでも250部族数に至っては、700を超えていた







そんななか1788年の植民地化によって

悪魔が南の大陸になだれ込んできた、




初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚

スポーツハンティングとして多くの

アボリジナルを殺害した



「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」

と記された日記がニューサウスウエールズ州の図書館に残されている




つまりは戦争でも怨恨でも何でもない

ただの「遊び、ゲーム」として
                 殺していったのである





さらに1803年にはタスマニアへの植民が始まる



入植当時タスマニアンアボリジナルは

3000~7000人の人口
であったが、


1830年までには 約300にまで減少した


虐殺の手段は、同じくスポーツハンティング毒殺


組織的なアボリジニー襲撃隊も編成された
 
という



数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり

水場に毒を流したりするといったことなども行われた




また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、


イギリス人兵士が

自由に捕獲・殺害する権利
を与える

法律が施行された




捕らえられたアボリジニ達はブルーニー島 キャンプに収容され、

食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た



これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、

ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は

10分の1以下になった



さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である

女性のトルガニニが死亡して

(トルガニニについても胸クソ悪い話があるが控えさせてもらう)



多い時期で約3万7千人ほどいた純血の
タスマニアンアボリジナルが 絶滅 した






特に東海岸沿岸部等の豊かな地域に居住していたアボリジナルは


当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの

後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり


この 入植者達によるハンティングという惨劇を

語り継ぐ者すら残さず姿を消している


1920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた



19世紀の末には、

アボリジナル
絶滅寸前の人種(死にゆく人種)
として分類されるようになる



同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め

彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが


これはむしろ人種隔離政策の性質が強かった




そして徹底的な差別、いわゆる白豪主義 を持って激しい弾圧は続いた







そして悪名高い

アボリジナル
隔離同化政策




これは1869年から公式的には1969年までの間、

(1980年代まで行われていたと言う証言もある)



アボリジナルの子供や混血児(ハーフ・カースト)


を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた



様々な州法などにより、

アボリジナルの親権は悉く否定され、


アボリジナルの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべき

という考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、



実際はアボリジナルの文化を絶やし

アボリジナルの
存在自体を消滅させる
のが目的であった




政府や教会が主導して行なわれたこの政策で

子供のおよそ1割が連れ去られ、


彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、


強制収容所や孤児院などの隔離施設であったが


隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された子どもたち

少なくはなかった





そして白人男性による性のおもちゃとして

“飼われて”いたのだ



10代前半で子どもを生ませ その子どもも犯す 

その際、男の赤ちゃんが生まれたら壁に打ち付けて殺していた


そういったことが ごく最近(30年ほど前)まで 田舎の農場で行われていた




(出どころが削除されていて裏付けはとれなかったが)

さらに 国家の医学実験計画で

アボリジナルの子供たち実験動物として

ハンセン病のウイルスを注射されていた



これは議会の委員会での聴取によるもので上院の法律委員会で行われた

「失われた世代への補償2008年法案」についての質問で明らかになった





以上の子どもを親から引き離す政策により



結果として白人は 
彼らから


アボリジナルとしての
アイデンティティを喪失させることに成功したのである



彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代) 、
または"
Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている






現在3、40歳代以上のアボリジナルには

家族と会ったことがない人々が多数存在しているのも事実証拠である





無論、

アボリジナルも
全くの無抵抗だったわけではなかった



これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、

結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった


逮捕者の中には

  まともな裁判を受けることなく
  そのまま死刑に処せられた者 もいた




1965年強制同化策の廃止

1976年アボリジナルランド・ライト法が施行されるまで(※あやふやな部分があります)

一部の人間ににアボリジナルを狩っても良いという許可証

が存在していた




つまりは

たった3、40年前まで

殺人ライセンスが
存在していたのである




一方、不毛な乾燥地域である"内陸" 部のアボリジナルは周辺の

厳しい自然環境に守られながら
どうにか固有文化を維持し続けた


今日でもアボリジナル文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る



近代のアボリジナル激減と、文字文化を持たなかった事から

文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、


彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない

音声的に完全に失われた言語も多く、

それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている




そして現在


アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった

これはオーストラリア総人口の約2%である

それでも入植当時の人口を大きく下回る





アボリジナルの失業率は高く平均収入は全オーストラリア平均の半分ほど

彼らの収入の大半は政府からの福祉手当、失業手当によって構成されている



「彼らは税金泥棒でLASY(怠け者)だ」

「私たちのお荷物だオーストラリアから出てって欲しい」

ヒッチハイクで親切に乗せてくれた白人のオジさんオバさんの言葉を思い出した




最悪な時代に比べマシにはなったが

一般オーストラリア人と比べ、平均寿命は短く、幼児死亡率が高い


さらに、ノーザンテリトリーやクイーンズランドでは、

アボリジナルのアルコール中毒とそれに伴う犯罪検挙率が高く、問題は多い



 長い間迫害され無視され続け、

土地との精神的結びつきを失い、

経済的自立を失った人々が、

いまだ、新しい生活になじめず

苦悩している姿が浮かび上がってくる





だからヒッチハイクで乗せてくれたアボリジナル親子は

カメラに過敏に反応し

オレに対し疑いの眼差しを向けていたんだ!






AUS編グレートイースタンロードその④ 『思えば遠くへ来たもんだ☆』 

   ↑
アボリジナルの車に乗った時の文章





そう言えばロードトレインの運転手ジェフが言ってたっけ

「私たちの先祖は
   アボリジナルにとても酷いことをしてきた
 我々は好き嫌い言える立場じゃない」



やっとオレが見てきたことと 話がつながった






近年、アボリジナルの権利意識の高まりとともに、

アボリジナルは過去のオーストラリア政府の「白人同化政策」に対する謝罪を求めている


 政府も過去の行為を謝罪するという”和解”が政治上の大きなテーマになっているが、

以前のハワード政権は

自由党の支持基盤である保守層への配慮と賠償訴訟の問題を考慮して、

過去の白人社会がしてきたことは


「遺憾」であるが、

「謝罪」はしないという立場を取っている




ただし、シドニーオリンピックは、

立候補の段階から「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」を約束し、

和解への第一歩にしようとしていた


そのため、聖火リレーは、

アボリジニの聖地のウルル (エアーズロック)を出発点とし、

アボリジニのノバ・ペリス・ニーボーン(アトランタ五輪女子ホッケー金メダリスト)

を第一走者とし、

最終走者にはキャシー・フリーマン(シドニー五輪400m走金メダル獲得)を選んだ








<キャシー・フリーマンのエピソード>



      ↑

シドニーオリンピックでレース後のキャシー・フリーマン



彼女も白人とアボリジニの混血で、


(Wikiには 父は単に強姦した白人で、
     隔離政策によって母親から引き離された
            との記述がある ?が真相は不明)





逃げることなく チャンスを掴んでいく


そして見事シドニー五輪で金メダルを獲得


レース後、オーストラリア国旗とアボリジナル旗の2枚を

固く結んでウイニングランをした





     
    ↑
アボリジナルの民族旗


1971年にお披露目された この旗は

黒 が過去、現在、未来とアボリジナルの肌

 がオーストラリアの赤土と彼らが過去の歴史で流した血

 色が 生命の源である太陽 を現している





しかしこの旗をキャシーが

オーストラリア国旗と並べて 掲げたことに対して

一部に根強く残る白豪主義者たちから非難が殺到した

(ちなみに現在オーストラリア人の10%の白人が今でも白豪主義者である)


しかし世界的な世論が味方をし英雄となり

アボリジナルの人々に希望と自信を与えた



そして近年ウルル(エアーズロック)の返還、

アボリジナルの市民権、社会保障の確立


まだまだ差別、偏見があるものの

一時は絶滅寸前の人種と言われたアボリジナルに


未来への兆しが現れだしたのである








アボリジナルにとって

ウルル(エアーズロック)は神の存在である

決して登っては行けない神聖な山である


欧米人のほか日本人ツアー客も

何も知らずに 山道を登っていく


これはアボリジナルの文化を尊重しないこと


例えると 日本で何も知らない外国人が

神社の神殿や寺の境内に汚い土足で入って歩きまわるようなもの


日本なら注意されるだろうが

彼らにはそれが出来ない



こんなことは少し調べればわかることだ




オレは知らないことは罪ではないが

知ろうとしないことは罪だと思う

知ろうとしないものが他の土地に入って

自分たちのエゴを通す

何とも恥ずかしい行為だ


オレはそうならないように気をつけよう、








最後にキャシー・フリーマンのシドニー五輪レース後インタビュー



「私が勝てたのは家族や友人

この国のすべての人達のおかげです


辛いときや悲しいときもありますが

チャンスは必ずあるのです」














つづく













世界一周ブログ村に参戦中

この記事がよかったと思ったら下のボタンをクリックしてね♪

キモタクのヤルキゲージが上がります!!!


   ⬇



にほんブログ村