今日は趣向を変えて、祖母の手記を投稿します(長文)。


戦後35年とあるので、昭和55~56年(今から37~38年前)頃のもの。

一般市民の戦争体験をまとめた市の冊子に収録されています。


祖母は終戦の4年ほど前、上海で日本人学校の教員をしていた祖父と結婚。

長女(私の伯母)が生まれ、長男(私の父)を身ごもっているときに敗戦を迎えました。

それから帰国までの様子を中心に描かれています。


※固有名詞は一部イニシャルにするか伏せて、私が加えた注は斜体にしました。


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怨みに報ゆるに徳を以ってす
  
   本町一 (祖母の名)
   大正7・〇・〇生

 8月15日、炎天続きの上海。この日朝の後片付けがすんだころ、あたりが急に暗くなり、ピンポン玉くらいのひょうが地面を叩きつけた。寒気がして私はなにか不吉な予感がした。昨日隣組長さんが「明日重大放送があるから聞くように」と回って来ていた。幼い長女と聞いたその放送は、波のような雑音がしてはっきりと聞きとれなかった。学校から帰ってきた主人から「日本は敗けた、戦争は終わったのだ」と聞き「もう空襲はない。灯火管制はしなくてもよいのだ」ということが口に出た。だが上海にいる在留邦人はどうなるのだろう。幼い長女と来年早々二番目が生まれるのに、ここで家族が別れ別れになったらどうしようかと、不安に襲われた。いざとなったらどんなことをしても日本内地に帰る、そうすれば何とかなるといつまでも主人と話し合った。

 終戦になる前、右隣のMさんは軍に関係のある商社に勤めていたので、奥さんと幼い子供二人を大連に疎開させていた。左隣のOさんは召集で出征し、奥さんと子供三人が残されていた。その隣の家では奥さんと子供を山形の実家に疎開させ、ご主人一人で軍関係の仕事をしていた。

 そのうち国府軍が上海に進駐し、在留邦人は北四川路以北に集結するよう命令された。それでも幸いに家財道具を持って割り当てられた家に引越すことができた。私たちも長春啓秀坊に二部屋を当てられ、内地に帰る順番を待つことになった。私は1月末、出産なので物資不足の内地では困るだろうと思って、町内一番最後の組で帰ることに決め、主人は日僑自治会が開いた学校で、子供たちにオルガンを弾いたり話をしたりしていた。

 中国人の在留邦人に対する態度は前と変わらず、私たちは「旧悪を思わず怨みに報ゆるに徳を以ってす」という蒋介石の寛大な布告のおかげで、なにも心配なく過ごすことができた。

 引揚げ船が出る度に空室が増えたがすぐ南京や奥地から引揚げて来た人たちがそこに入り優先的に乗船して行った。1月末鹿児島に帰るというSさんのお世話で無事に男の子が生まれ、これで私たちもやっと帰れると思った。

 町内の残った人たちと一緒に4月1日出発の通知がきた。一人一個の行李と布団袋の整理はすぐできた。主人は大きなリュックを背負い、両手に持てるだけ持ち、私は生後60日の長男を背負い、両手に持てるだけ持ち2歳4ヵ月の長女は一人歩きさせた。半年住んだ家を出て後を振り向いたら、鉄の大門から国府の憲兵の一団が歩調を合わせて入って来た。この町内が無人になるので接収に来たのだ。未だ薄暗い早朝のあの不気味さは今でも忘れることができない。これからお姑さんや妹たちのいる〇〇(※いま私が住んでいる市)へ帰るのだ。このとき二人とも27歳だった。暑い日ざしの市政府の前には何百人という人が、静かに列をつくって待っていた。乗船したのは午後4時ごろだった。船倉に皆、ざこ寝だったが、だんだん落ち着いてきた。

 私は幼児の守りで夢中だった。明日上陸という日、船内にコレラが発生したというので上陸禁止になり、博多港を目の前にして数日が過ぎた。待望の上陸。やっと手足を伸ばすことができた。壁に貼ってあった全国被災地図で○○が無事なことを知りほっとした。急ごしらえの博多駅から一面焼野原の市内をながめ、大阪の駅前で孤児が何かくれと手を出すのに驚き、上野の地下道で大勢いる浮浪者にもびっくりした。○○に着いたのは上海を発ってから16日目だった。5年振りの対面だった。

 あれから35年、2年前老人クラブの日中親善の旅に主人とともに参加、永年望んでいた上海にも行くことができた。10日間の旅で北京まで中国民航で4時間、北京を観光し南京を回り上海に3日間。滞在中特に日本人居留地だった虹口(ホンキュウ)に行くことができた。タクシーの中から主人が勤めていた学校の建物をみつけた。

 今は中学校になっていて、校舎の外壁は汚れていたが昔のままだった。にこにこした女の門衛と握手をして別れ、虹口公園に行き、魯迅の墓前で写真を撮り、帰りに北四川永安里の前で車を止めた。鉄の大門の上の昔のままの、「永安里」の文字を眺め、少しも変わっていない私たちの住んでいた家の軒並みを見上げた。溝には旧節句のちまきの笹の葉が散らばり特異なモードンのにおい(※どのようなものか不明)に、今は中国人の住み処なのだと思った。

 上海は私たちにとって生活を始めた所で忘れることのできない懐しい土地なのである。




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一応、仏壇の前で
「ばぁちゃん、ブログに載せるね~」
と報告してきました。
返事はもらっていませんがてへぺろ


花丘ちぐさ先生のブログ記事

「胎児はお母さんの気持ちを分かっている」
を読んだことがきっかけで、
父の場合を思い出しました。

ただ、私の場合
この点については
父の人格形成に
それほど深い関係はない気がしています。
なんとなく、ですが。



27歳だった祖父母が
幼い子供を守りながら
必死で生きて帰ろうとしたんだな。

こうやって私まで命が繋がったんだな。

「怨みに報ゆるに徳を以ってす」とは言うものの、戦争という非常時では人の数だけ物語があったんだよな。

そして、きっと複雑な想いを持ちながらも冷静に対応してくれた、上海市民のみなさんありがとう。



なんてことを思いながら
読み返しました。



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今日は夕方に
日差しが見えました。

気持ちがいいので
散歩をしてきました。


お菓子屋さんの前を通ったとき
祖母と一緒にケーキを選んだ光景を
ふと思い出しました。


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今日も最後まで読んでいただき
ありがとうございましたニコ