陽が西に傾き始めた午後。
霧が立ち込めたのかと思うほど、男達の吐く息は白い。
その知らせを聞いたのは、鍛錬場で死ぬほどの稽古を付けている時だった。
「何だと?!」
「はい、医仙様が典医寺でお怪我を。」
「まことか?!」
怒声に驚いた兵達が、一斉にヨンに視線を向ける。
だが彼に長としての体裁を気にする余裕はない。
激しい鼓動が全身を打ち付け、脳天から一気に血が下がる。
「怪我の様子は?!」
「いえ、まだ詳しい事は・・ただ隊長に早くお知らせせねばと思いまして・・」
いつもなら詳細を調べるために、すぐに部下を走らせただろう。
怪我の一文字に冷静さを失ったのはヨンだけではなかった。
チュンソクは申し訳なさそうに首を垂れる。
「チュンソク。」
「はい、承知しております。此処は某にお任せを、隊長はお早く医仙様の元に。」
「よい。」
「はい?」
「行かぬ。」
「隊長?!」
ヨンはチュンソクに背を向け、倒れ込んでいる兵達の方に歩き出す。
俺が行ってどうなるものでもない。
典医寺にはあの男がいる。
「隊長、ご心配なのでは?」
ああ、心配だ。
怪我の具合は?
苦しんでおられるのでは?
今の今まで続けていた鍛錬の内容さえ忘れてしまうほど、頭の中は彼女のことでいっぱいだ。
出来ることなら今すぐ駆け付け、あの方の温もりをこの腕に抱きしめたい。
だが・・
「鍛錬を続けるぞ。」
「え?!あ、はい。」
この苦しみは俺に与えられた罰。
俺の顔を見れば、彼女は忘れたい出来事を思い出し、辛い想いをするだろう。
だから、どんなに会いたくても近付いてはならない。
たとえ、この心が砕けようも・・
そして炎の灯りが行き交う時刻になると、王宮でウンスの怪我を知らぬ者はいなくなった。
心配した者達が代わる代わる典医寺を訪れ、客の応対に追われる医員達は、いつも以上の忙しさに追われていた。
「医仙殿、王妃様より見舞いの品が届きました。」
「ええ?!王妃様にも知られちゃったの?」
「はい、おそらくチェ尚宮様から。」
椅子に腰を下ろし作業をしていたウンスは、大きな溜息を付く。
立ち上がった拍子に割れた乳鉢の破片で足の裏を切ったのだが、幸い処置が早かったおかげで大事には至らなかった。
「大袈裟よ、軽い切り傷なのに・・」
「分かっていても、心配なのですよ。」
チャン侍医は優しい笑顔で、薬草を煎じた茶をウンスの前に置いた。
「でもチャン先生・・」
肝心な男は姿を見せない。
平気なふりをしても、やはり自分を心配する彼の顔が見たかった。
「私って勝手ね。」
「たがが切り傷と油断してはなりません。陶器の破片は全て取り除いたつもりですが、残っていれば大事になります。」
「分かってる、ただ私の不注意だったから、皆に心配かけるのが心苦しいの。」
そう、彼の噂を聞いて動揺した。
足元の破片に気付かないほど・・
「ばかみたい・・」
そう呟くと、ウンスは自分の足を叩いた。
「確かに、意地の張りすぎが招いたこと。隊長に酷すぎる罰を与えたのです、怪我は別としてあなたも反省なった方がよろしいですね。」
「チャン先生?」
ウンスはチャン侍医の言葉の意味が分からず首を傾げる。
「お分かりになりませんか?」
「ええ、どういう意味ですか?」
罰など与えた覚えはない。
酷過ぎるとは、それこそ身に覚えのない事だった。
「隊長に別れを告げたと聞きましたが。」
「え・・違うわ、初めに戻ろうと言っただけよ。」
「それが分かれと言うのではありませんか?」
「あ・・」
そう言われて、ウンスは初めて気付いた。
出会った頃に戻ろうと言ったが、やり直そうとは言っていない。
いや言ったつもりだった。
二人の関係を勝手に頭の中で想い描き、勝手に納得して・・それを言葉にしたかと問われれば・・
「言ってないかも・・」
「言葉が足りなかったようですね。」
「どうしよう・・」
やれやれとチャン侍医も溜息を付く。
「テジャン、怒ってるかしら?」
だから姿を見せないのだろうか。
ウンスは不安に襲われた。
「来ないと言うより、来られないのでは?」
「え・・?それはどういうことですか、チャン先生?」
チャン侍医の様子を見て、困惑した表情を浮かべるウンス。
すると彼は僅かに口角を上げ話し始める。
「じつは・・」
やがて訪れる闇夜。
守りの兵の交代の時刻。
冬場の立哨は屈強な兵達でさえ身体に堪える。
重い足取りで兵舎を出る男達は、ピタリと足を止めた。
「何者?!」
灯りの炎に照らされた異形な影。
兵達は一斉に剣に手を掛けた。
「隊長、やはり典医寺に参られたほうが・・」
「必要ない。」
「ですが・・」
厳しい鍛錬の後も一時として休もうとしないヨン。
チュンソクも、いつもならここまで食い下がりはしない。
だが状況は変わった。
「意地を張っている場合ではないでしょう。」
「チュンソク?」
いつもと違う強い口調に、ヨンも書簡から目を離した。
「隊長・・」
ヨンの顔を見た途端、チュンソクは眉間にしわを寄せた。
そして再三の進言をしようと、口を開きかけた時。
「隊長!」
何の前触れもなく、トクマンが部屋に飛び込んで来た。
「何事だ?!」
チュンソクは険しい表情のまま振り向く。
「あ・・の」
トクマンは予想だにしないチュンソクの反応に笑顔を崩す。
「トクマン、何用だ?」
再び視線を書簡に戻すヨン。
「あ、はい、隊長に客人が。」
「客?この夜更けにか、誰だ?」
「それは・・高貴な御方です。」
「だから誰だと聞いておる。」
「ですから、隊長の大切な客人です。」
「トクマン!」
トクマンはチュンソクに問いに曖昧な答えを繰り返す。
見かねたヨンは書簡を卓の上に置き、トクマンに視線を向けた。
「トクマン、客人は外でお待ちなのか?」
「はい、どうしてもお会いしたいと、お通ししてもよろしいですか?」
嬉しそうに話すトクマンは、まるで子供のように目を輝かせている。
ヨンは再び書簡に手を伸ばす。
「分かった、ではお通し・」
「もう来ちゃったわよ。」
その声を聞いた瞬間、ヨンの手が止まる。
「医仙様。」
苛立ちが一気に消え、笑顔で客を迎えるチュンソク。
「どうぞ中へ。」
意気揚々と部屋の入り口に向かうトクマン。
「私を怒らせる気なの、テジャン。」
チャン侍医に抱きかかえられ部屋に入るウンス。
その表情の険しさは、チュンソクの比ではなかった。
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