急に息苦しくなった。
「ん・・」
彼の名を呼ぼうとしても声が出ない。
強い力が伸ばそうとする手を抑え付ける。
「テマン、お前は医仙を守って・・」
あの人の声が次第に遠のく。
視界が霧に包まれ、まるで異空間に吸い込まれるように彼から引き離された。
このまま夢から覚めるのだろうか・・
夢から覚めれば現代に戻れるのだろうか・・
そして何事も無かったかのように平凡な日常に戻り、色のない生活が始まる。
そう・・これは全て夢。
苦しい事も、辛い事も・・みんな夢だった。
高麗も王様や王妃様、チェ尚宮やマンボ姐さん、テマン君や迂達赤のみんな・・
すべて夢で出会った人たち。
そしてチェ・ヨン・・・
彼も幻になる。
あの人の声も・・
あの人の姿も・・
あの人の温もりも・・・・すべてが幻。
きっと目が覚めたら忘れてしまう。
忘れる・・あの人を?
あの人の言葉を・・
あの人の笑顔を・・
あの人の口づけを・・
私は全て忘れてしまうのだろうか。
ううん・・いや、忘れたくない。
何を失ってもいい、でもあの人だけは失いたくない。
絶対に・・
「ヨンァ――!」
「ウンス?!」
「えっ・・?」
息苦しさから解放され、一気に肺が空気で満たされた瞬間。
目の前の霧の中に黒い影が浮かんだ。
「はぁ、はぁ・・だれ?」
「大丈夫か?」
「・・リュウさん?」
「ああ、手荒な事をしてすまない。」
「ここは・・?」
ウンスは呼吸を整えながら辺りを見渡した。
遠くに見える松明の炎以外、暗闇に包まれ何も見えない。
「テ・・」
「しっ!声を出すな。」
「んん・・?!」
大きな手で口を塞がれたウンスは目を丸くする。
「頼むから、騒がないでくれ。」
「んん・・?」
素直に頷くウンス。
それを見て、男はやっと手を離した。
「リュウさん、どうして?」
当に逃げ出したと思っていた。
「仕方がない、お前も知っているんだろう、俺達の正体を。」
「えっ・・それは・」
まさか泥棒でしょう?とも聞けず、ウンスは押し黙った。
「そうさ、俺達は盗賊だ、だが悪い事をしてるとは思っていない。」
「なぜ、他人の物を盗むのは悪い事でしょう?」
「俺達が盗みに入るのは、金持ちの貴族や悪どい商人の屋敷だ。」
「それでも悪い事よ。」
「なぜだ?」
「だって・・」
ウンスはリュウの堂々とした態度に驚いた。
悪いことを悪いと言って、何故だと切り替えされても答えようがない。
「俺達は誰も傷つけていない、悪い奴らから金を奪って何が悪い。」
「義賊だと言いたいの?」
「そう思ってる。」
「自分達が裕福なら、それでいいの?」
「それを言うなら王はどうだ?」
予想したと通りの答えだった。
確かに、この国の頂点に立つ王は誰よりも恵まれている。
そう表面上は・・
だが傍に居て分かったことがある。
誰よりも優しい方だから、民を憂いて眠れない夜を過ごし。
誰よりもこの国を愛しているから、泣くことも弱音を吐くことも出来ないのだと。
「王様も苦しんでいるわ、きっと私やあなたが考えるより、はるかにお辛いはずよ。」
「そんな話を信じろと?」
「そうね、私もここに来るまでは考えたこともなかったから。」
歴史に名を遺した偉大な人物。
ただそれだけの人だった。
王様の苦しみも、あの人の悲しみも、傍にいて初めて知った。
教科書に記された歴史は、ただの物語ではない。
一行の文字の中に何千、何万もの人の人生が刻まれている。
「チェ・ヨンが?」
「ええ。」
「ふ・・」
「何が可笑しいの?」
笑みを漏らした男。
「あいつほど恵まれた男はいない、高麗きっての貴族、王の信頼厚い側近。」
「何も知らないくせに・・」
「そして、お前だ。」
「わたし?」
「ああ、あの男はお前の心を独り占めにしている。」
「えっ?」
ウンスは頬が熱くなるのを感じた。
第三者から見ても私達は・・
「おい、そんな嬉しそうな顔をするなよ、腹が立つ。」
「あ、ごめん・・ん?どうして私が謝らなくちゃいけないの、こんな所に連れて来たくせに。」
「ああ、腹が立つから奴の寝首を掻こうかと思ってな。」
「何をするつもり?」
「お前を奪う。」
「え、わたしを奪うって・?」
「ウンス、お前を一緒に連れて行く。」
「冗談でしょう。」
「この状況で冗談など言えるか、何のために奴から引き離したと思ってるんだ。」
ウンスは遠くに揺れる炎を見つめた。
助けを呼ぼうにも、ここからでは声が届かない。
かと言って、この男に力で勝てる自信はない。
「おいおい、本気で抗うつもりか?」
だけど、このまま連れて行かれたら・・
現代に戻るどころか、あの人にも二度と会えなくなる。
「どうすれば・・」
逃げる方法が見つからないウンスは、息を呑んで空を見上げた。
「隊長、医仙様はどこにも見当たりません!」
「村の隅々まで探したか?!」
「はい、瓶の中や天井裏まで、しらみつぶしに探しました!」
「なぜ見つからぬ・・」
すべては自分の気の緩みだ。
ほんの少しの気の緩みが深刻な事態を招く。
知っていながら、あの方の心を得たと有頂天になっていた。
そして舞い上がった心が隙を生んだ。
「俺のせいだ‥」
「隊長?」
「チュンソク、奴が攫ったのなら村の外に出たかもしれん、捜索の範囲を広げろ!」
「はっ!」
白い息が煙幕のように顔を隠す。
この寒空の下、兵達はどれほどの時を過ごしたのだろう。
戦いのさ中でさえ、一時の休息を取るよう命じたはずだ。
疲労は冷静な判断力を失わせ、命の危険を招く。
だが一刻を争う今、体を休めろとは言えない。
ここで気を緩めては、あの方を見失ってしまう。
例え更なる危険があろうとも、一刻も早く見つけ出さなければならない。
もし奴が攫ったのなら‥いや奴しか考えられない。
危害を加えられる危険は少ないだろが、彼女を簡単に返すとは思えない。
『俺の女にしたい‥』
あれは、ただ願望じゃない。
必ず手に入れる、という警告だ。
あれほどの男だ、簡単に諦めないだろう。
おそらく、この土壇場の状況を好機と、あの方を奪ったに違いない。
俺の女・・
奴の言葉が頭から離れない。
「くそ、あの方の身に何かあれば、八つ裂きにしてくれる・・」
体中の血が燃え滾る。
怒りで我を忘れそうだ。
怒りで正気を失う前に、誰か俺を止めてくれ。
さもなくば体から湧き上がる怒りの炎で、森を焼き尽くしてしまうだろう。
そして命の尊さも、人としての道理も忘れ、怒りの剣を振り下してしまう。
「頼む・・だれか・」
ヨンの身体が青白い炎に包まれ始めたとき・・
「隊長!!」
「隊長!!」
兵達が一斉に声を上げる。
その声が示す先。
「ウンス・・」
ヨンは自分の気持ちを確信した。
炎に照らされ赤く波打つ髪。
星のように輝く瞳。
闇に浮きあがる白い肌。
春の風のように優し気な面差し。
夏の花のように凛として立つ姿。
俺は彼女が好きだ・・
彼女がいれば生きていける。
いや彼女を失えば、自分の存在さえ無に等しい。
俺の傍で俺だけを見て、俺だけのために笑て欲しい。
俺だけが触れ、俺だけがあなたを抱きしめる。
人を恋い慕う・・
こんな熱い想いは初めてだった
そして魂の底から湧き上がる欲望。
俺は彼女が欲しい・・・
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