父の戦場体験 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。



昭和55年(1980)6月28日東奥日報の紙面が保存されていた。親父清四郎64才の時に『戦場 私の体験』に載った。大正4年(1915)7月生まれ。

『昭和10年4月、現役でハルビン飛行第11戦隊に入った。13年4月、熊谷陸軍飛行学校に入校、操縦戦闘機部の77期生として卒業したが、当時、戦闘要員として隊から選抜される条件としては、総領でないこと、からだがよいこと、親から承諾が得られることなどがあげられる。私の戦闘要員選抜も、条件にピタリだったと思われる。
飛行学校での練習は8ヶ月だが、入校しても、卒業できるのは、千人のうちわずか三百人ぐらい。振り返ってみると、非常にまじめだったようだ。飛行学校卒業後は実戦部隊として中支に出動、武漢や南京に前進する地上部隊の援護に従事したが、実戦は無かった。
15年の暮れ、部隊は中支から哈爾浜にがい旋した。そして翌16年2月25日、仮想敵国を設けて、耐寒訓練が行われた。編隊が飛び上がって十五分ぐらいしたころ乗っていた九一式戦闘機のエンジンがストップ、ハルピンの東北、興安嶺の山中で、飛行機から脱出するという運命の岐路に立たされた。』
・・・以上前半。

※昭和10年(1935)20才で、23才で熊谷陸軍飛行学校に入った。

※飛行戦隊(ひこうせんたい、飛行戰隊)は、大日本帝国陸軍の航空部隊における部隊編制単位の一つ。通称は戦隊。帝国陸軍における軍隊符号はFRないしF。
従来の飛行連隊からの改編以降、飛行戦隊は支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)にわたり帝国陸軍解体に至るまで、陸軍航空部隊(陸軍航空隊・陸空軍・空軍とも)において中核となる実戦部隊編制単位であった。
なお、「飛行戦隊」自体はあくまで「陸軍航空部隊」において基本となった「編制単位」の名称に過ぎず、「陸軍航空部隊」にはほかにも独立飛行中隊等の各飛行部隊が多数存在している。

※飛行第11戦隊(ひこうだいじゅういちせんたい、飛行第十一戰隊)は、大日本帝国陸軍の飛行戦隊の1つ。通称号は燕第八三一一部隊、軍隊符号は11F。
概要
飛行分科:戦闘
編成時期:1938年(昭和13年)8月31日
編成地:ハルビン
使用機種:九七式戦闘機、一式戦闘機、四式戦闘機
終戦時の所在地:高萩

※熊谷陸軍飛行学校(くまがやりくぐんひこうがっこう)は、日本陸軍の軍学校のひとつ。主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。1935年(昭和10年)12月に開設され、1945年(昭和20年)2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖された。学校本部および本校は埼玉県大里郡(現在の熊谷市西部)に置かれ、ほかに各地に分教場または分教所があった。

※熊谷陸軍飛行学校設立
熊谷陸軍飛行学校本部
1935年(昭和10年)7月、上記制度のうち操縦分科の生徒教育のため熊谷陸軍飛行学校令(勅令第224号)が制定され、同年12月1日施行された。これにより開設されたのが熊谷陸軍飛行学校である。
学校令第1条で熊谷陸軍飛行学校は「飛行機操縦ニ従事スル航空兵科現役下士官ト為スベキ生徒ヲ教育スル所」と定められた。学校の編制は陸軍航空本部長に隷属[* 1]する校長のもと、幹事、本部、生徒隊、および材料廠である。熊谷陸軍飛行学校は埼玉県大里郡三尻村(現在の熊谷市西部)に置かれ、12月4日より事務を開始した。
学校令では一般および陸軍部内から上記制度の召募試験に合格した操縦生徒と、操縦従事の航空兵科幹部候補生および陸軍補充令第83条第1項の下士官候補者として採用された特種生徒が主な教育対象であったが、その他に憲兵を除く兵科下士官以下を召集して「飛行機操縦ニ関スル修学ヲ為サシムルコト」も可能とすることが定められた。
・・・・以上ウィッキペデアより