1982年11月LA | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

1982年10月に取りかかったビル、約100年は経っているだろう(当時から70年ぐらい前)1910年20年代に建築されただろうビル。その2階を住めるように改造、下で漬け物を製造するという。水道が出ないというので、修理しようとしたら、ボロボロ。近くにはこれまた、よく残っていたなという金物屋、近いうちに廃業するという。そこから部品を買って修理。

どうしてロスで漬け物屋なのか、雇われた沖縄生まれの彼に聞いたら、大根を買い入れて、塩で漬け、最終的には「タクワン」にするという。なぜなのか?と聞くと、
ロスアンジェルスの日系人マーケットで馬鹿売れしているのがタクワンだという。
 あとからわかったことだが、1980年から以降、韓国人からの移民でたくさんロスアンジェルスに入り込んで来ていた。そこに売るということらしい。日本から輸入するより、現地で作った方が儲かるだろうとの目論見であったらしい。
漬け物をつける大きなバットをたくさん用意して、大根を買い込んで、そこに並べて塩をふり重しをする。というバットたくさん用意していた。
 
 それからオーナーより表のビルの壁に看板を書いてくれとの要望。なんでもやりますよということで、足場を組み立て「○○屋」と書いた。それが後で、日本の漬け物屋から訴えられることに。あとから聞いたら許可を得ていなかったか、日本では老舗の名前を無断でそのまま使用したからなのか。
 
グーグルマップで、そのビルを発見したが、売却したらしく壁がグラフィティだらけになっていた。近くにはホーム○○がたくさん寝ている。


「韓国移民の歴史」
第3期
1965年の米国移民法改正によって韓国移民が米国に入りやすくなった現在までが第3期である。移民法改正後、米国はベトナム戦争に協力した韓国を同盟国として扱い、比較的大きな移民枠を設けた。1965年の韓国系アメリカ人数は約2.5万人であったが、1970年には5万人、1980年には35.7万人、1990年には70万人と膨れ上がった。とりわけ1980年代に約35万人が韓国から米国に渡っている。
この時期の移民は経済的理由だけでなく、北朝鮮との戦争の危険や国内の軍事独裁政権を嫌って移民する者も多かった。このため、韓国人移民は単身労働者ではなく、本国で貯蓄したある程度の資金をもって家族ぐるみで渡航する傾向が見られる。米国各地にコリア・タウンが形成され、"パパママショップ"と呼ばれる低所得者向けの個人商店や、クリーニング屋に従事する者が多い。・・・ウィッキペデアより