3月末ギルロイ市のテッド内田氏から田子町長に来てもらいたいとの電話連絡が入り、訪問日を4月15日としてギルロイ市側と調整をしてくれるとのこと。
1988年4月15日(金)田子出発
渡部剛己 田子町長
藤村義雄 町議会議長
山崎喜三郎 総務課長
柳田慶一 田子農協ニンニク部会長
以上4名を引率し案内役兼運転手として、肩書きは「田子町商工会青年部長・タプコプ町民塾事務局・ギルロイ市と友好親善を深める会事務局」として、今回の渡航旅費は全額出た。
三戸駅から盛岡駅やまびこ36号にて上野駅下車、上野駅すぐの聚楽で昼食後スカイライナーにて成田まで。成田東京国際空港16時30分発ノースウエスト航空028便に搭乗。
もちろん日の丸JALには乗りたくても高くて、毎回ノースウエスト航空かというと当時旅行社がすすめたアメリカ大往復航空運賃最安値であった。
同日15日サンフランシスコ朝着ハーツレンタカーでシェビーワゴンを借りて、5号線を南下し、昼すぎギルロイ着。ヒューワン市長と商工会議所副会頭のデイブの案内にて、クリストファーランチというギルロイ周辺の野菜やにんにくを全米に卸している会社を訪問した。全米1番のにんにくの会社の前には、日本国旗日の丸が掲げられていた。ドン・クリストファー社長の案内で特別に工場内を見学。また、その近くのギルロイフーズINCというアメリカ最大のにんにく乾燥粉末工場も視察した。日本の大手食品メーカーに輸出していたサンプルがあった。現在のドンゲージ市長が当時はマネージャーをしていた。
1988年4月16日(土)9時すぎにギルロイ市ダウンタウンにて開催されたイベント「DOWNTOWNEXPO’88」(ダウンタウンエキスポ88)に招待された。10時からオープニングセレモニー開始。隣町モーガンヒル市のユリコ・フレッチャーさんとテッド内田氏のお手伝いにてあいさつ等がスムーズ滞りなくすすんでいる。
ギルロイという名前については、ノルウェー船?の捕鯨船がモンタレー湾に来ていた。それに乗り込んでいた水夫ジョンカメロンギルロイという名前のスコットランド人が定住したことでついたという説がある。旧市役所は1907年設立。
内田善一郎氏(ジム内田)息子の誠一郎氏(テッド内田)が経営しているギルロイ市の南「ゼン フラワーショップ」にて歓迎パーティが開かれ招待された。店内には内田さんが用意した祝い酒があった。隣町のホリスター市にある「大関酒造」は1979年オープンした。加州の米とシェラネバダからの水で日本酒を作っている大関酒造ホリスター醸造所からの樽酒で乾杯した。
内田善一郎氏は、第2次大戦時に反日運動の拠点だったサリナス市と自らの出身地鹿児島県串木野市の姉妹都市を締結させることに成功していた。次はギルロイ市と田子町だ。と根回しをしてくれていた。
1988年4月18日(月)午後からギルロイ市役所の隣にある市議会議場に集合した。ギルロイ市議会議員は7名(市長はその中に含む)議場は議員と聴衆する市民と対面するという作りになっている。臨時市議会開催され、田子町とギルロイ市姉妹都市締結案が市議会に上程され、満場一致にて可決されめでたく調印出来ることになった。田子町渡部町長とギルロイ市ヒューワン市長を取り持つ重要な役目をテッド内田氏が兼通訳として補佐した。
この姉妹都市締結を推し進めた共通のテーマは『にんにく』という農産物であった。しかしこれを『縁』とするには、アメリカと日本の歴史をもっとさかのぼる必要があった。この日ギルロイ市の博物館を見学したときに見せられた戦前の新聞(地元デスパッチ紙)には、びっくりするような記事が載っていた。日本生れのジミーヒラサキ(平崎 清)という名の記事であった。1930年代当時『ガーリックキング』といわれているとあった。まったく知らなかった。




