田子町とギルロイ市との関係 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

1978年からのアメリカ6年の滞在記は後にして、明日4月18日はギルロイ市と姉妹都市締結して25周年になる。その関係を作ったのはギルロイ市在住の内田善一郎氏と息子のテッド内田である。そのきっかけとして自分の人生を絡めたことは、自分自身が町のために何かの役にたっているのかなと過去の記録をたどりながら振り返ってみている。

 1987年9月テッド内田氏が引率してくる訪問団メンバーリストが届いた。テッド内田の裁量で田子町を日程に組み入れたもので、当初の日程と大幅に変更したものだった。それこそ日本の南から北までというスケジュールになっている。海外からのお客様を迎えるに田子町として初めてのことであり、隣の三戸町の国際交流を進めている団体から手助けをしましょうかということもあったが、すべて田子町の手作りにてやりますということで断った。
田子町訪問団リストは下記の通りであった。
 ロベルタ・ヒューワン ギルロイ市長(女性)
 グエネス・マリー・ヒューワン 市長の娘
 グレン・スエヤス 1987年ギルロイガーリックフェスティバル実行委員長
 ジェニファー・ストートン 1987年ガーリッククイーン
 アンドレア・ヘイビング クイーン付き人
 ブライアン・グレイヨン 下院議員ノーマンミネタ秘書
 ダグラス・ハヤシ 公認会計士 
 デイブ・ブシャード ギルロイ商工会議所副会頭
 エンマ・ピニャ・マラッド 弁護士
 デビット・タカモト 建築家
 マサル・セイドウ マーケティングデレクター
 テッド内田  (引率 通訳)
以上計12人で、9月18日サンフランシスコからJAL001便にて成田着予定。
千葉県柏市の廣池学園訪問し宿泊。21日に羽田から福岡へ教育関係会社訪問宿泊。25日に福岡から羽田着東京新橋第1ホテル宿泊。9月26日(土)羽田発三沢着が12時すぎというスケジュールであった。
25日の夜テッド内田より連絡あり、田子町での歓迎準備状況をきいてきた。

田子町で用意したことは当時の公民館の男女トイレの便座を和式から洋式便器にとりかえ、入口の戸も大きくしたということが地元新聞記事となった。
 役場との会議で、私から提案したことは、バスで三沢に迎えに行き、荷物は大量にあると予想されるので荷物専用トラックも行くこと。また田子町に入ったあたりに「歓迎」の幕か立看板があればと。土曜日の午後なので学校は休みとなるので子供たちに、小さな国旗を皆にもたせて待たせておき、バスが来るのを待つこと。
 あとは、式典とか何とか会で会合というと男だけしか出席しないので、この際「アメリカ式に?」ということにして、夫婦同伴で出席するようにと案内に記しておくこと。いままでの酒席ではタバコの煙でもうもうとしていたので、会場内は禁煙ということを守らせるため灰皿をおかないこと。余興として盆踊り(なにゃどやら)の会場に移り解散となる前に記念写真をとること。2日間の滞在なので、次の日は「さよならパーティ」として、昔の家屋にて、この地方の食材にて日本の田舎料理を出すこと。日本の半纏、法被を「ハッピーコート」と呼び喜ばれるので、歓迎とお土産の意味で名前入りで作ってあげる。などなどを受けてもらった。
 後日ある奥様から「今まであのような会合に夫婦で出たことがなかったが、この機会だというので着物を買ってもらってよかった」と感謝された。ギルロイ市長以下12名の田子町訪問団の滞在2日目の1987年9月27日。
昨夜の宿泊は田子町内にある医師住宅2棟が空いていた(田子町立病院で医師を抱えるときに、住宅を提供していた)ので、ここに人数分の布団をレンタルした。もちろん田子町には旅館はあるが、あえてこの選択肢をとったのは、予算上の都合ではなく、手作り感のある接待をとの考えからであった。これについては「お客様」に対しての「日本の田舎の気持ち」を優先したからであった。
 ただ八戸市にあったケンタッキーフライドチキンの店からバスケットで買ってきた夜食を届けに行ったら喜ばれた。朝は焼きたてパンと牛乳りんごジュースを届けた。
 27日(日)午前は田子中学校の体育館にて「綱引き大会」に参加、お昼は大福山公園に移動して「にんにくとべごまつり」として開催の「陽だまりの小屋」にて丸焼きバーベキューパーティにて田子牛(黒毛和種)のバーベキューを堪能。その後自由時間とした。
 夜には150年程前の農家屋を移築復元し、民俗資料館と称している(典型的な南部曲がり屋)にて、「さよならパーティ」を開いた。
訪問団には日系3世4世の方もいたので、古い日本の農家の様子を伝えている「いろりかまど」で日本の「みちのく南部」地方の田舎料理を食べてもらいたいからであった。商工会婦人部農協婦人部役場有志にて、腕によりをかけた郷土料理として「ひっつみ・くしもち・漬物・そば」などをふるまった。
 ギルロイ市のヒューワン市長から「今日9月27日を友好の日にしよう」とのメッセージがあり、次の段階にいけると確信した。
 
9月28日9時20分三沢空港発東亜にて羽田行に搭乗するので、三沢まで町長達と行き、訪問団を見送った。その後訪問団一行は成田に移動して18時発のJALでサンフランシスコに帰った。87年9月テッド内田氏が田子町を訪問しギルロイに帰ってから、彼はいろいろな場所で、感激したことを話してくれていた。田子町という町が日本にある、そこは典型的な田舎の町で今回手作りにて町をあげて、ギルロイ市長らを心から歓迎してくれたことを。田子町に入ったおりにバスからみた、子供たちがアメリカと日本の小旗をふって追いかけてきたことに、皆が感激して涙を流したこと。田子町の「暖かいホスピタリティー」をギルロイ市民の方々に報告していた。
 実は26日夜の歓迎会のときに同席したある高校生から「ギルロイへ行ってみたい」とお願いされていた。テッド内田には、このことは話をしていた。また彼も、次の交流の場面を作るために、また熱いうちに、お互いに出来ることをやろうということで、考えは一致していた。田子町の子供たちがギルロイを訪問させ、ホームスティをしてもらうことであった。
 この提案には教育委員会に動いてもらわないということで、仮称「第1回高校生短期派遣事業」にして、ギルロイ市側はテッド内田氏が受け入れてくれることで、話はトントンといった。ただ最初は地元からということだったが、田子高校生と枠をはめられなかったのは、希望している生徒が八戸の高校に行っていたからであった。予想したとおり、田子町から補助金を出すことで地元優先ということを言われた。最初の田子出身の高校生3人を選抜し12月21日より1月4日までギルロイに旅行するということになった。だが、この事業を立ち上げたことにより、その後から田子出身の高校生は行きやすくなった。

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